数珠の歴史
四天王寺あたりの数珠屋の娘は、一遍の時衆と共に聖徳太子の廟所である磯長(しなが)の叡福寺に居ます。
一遍は弘安7年(1284)、京の都で六字名号の賦算と念仏踊りで多くの人を集めた後、四天王寺を訪れ、数珠屋の娘を訪ねました。
数珠屋の娘は丁度数珠を編んでいる処でしたが、「娘よ、また数珠を頼む」という声に顔を上げると一遍の笑顔が見えました。
「一遍様、いつ都から入られましたか」
「先ほどじゃ」
「都では随分と多くの人達の賑わいぶりでした。私も念仏踊りを拝見しました」
「そうか、どうであったか」
「それは見事な踊りでございました。極楽浄土への結縁をさせて頂きました」
「そうか、それは良かった。娘よ、私はしばらくここに逗留した後、磯長の聖徳太子の廟に参り予定だ。ついては、聖徳太子ゆかりの数珠があるいと聞いておるが」
「はい、源氏物語にも記されている数珠のことでございますね」
「ほお、源氏物語を知っておるのか」
「いえ、読んだこはございませんが、都の姫君様からお聞きしております」
「そうか、そうか」一遍は大きな笑みを湛えながらうなずきました。
『源氏物語』には聖徳太子が百済の国からもたらされた金剛子の数珠のことが、そして水晶の弟子玉のことが記されています。数珠屋の娘は都の貴族の姫君達から、そのことを耳にしていました。
「承知いたしました。金剛子で仕立て、水晶にて弟子玉をお作りします」
この時代、聖徳太子は仏教者として崇敬されていました。娘が営む数珠屋は四天王寺の門前ですが、この四天王寺も聖徳太子の発願で建立されたもので、数珠屋の娘も聖徳太子を深く崇敬していました。
数珠屋の娘は一遍と時衆の列に加わり、磯長の聖徳太子廟にお詣りすることになりました。一遍と時衆はここで3日間、参籠しています。
御廟は古墳で、聖徳太子の妃である膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)、母妃の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后も共に祭祀されており、現在では叡福寺(えいふくじ・大阪府南河内郡太子町)の地にあり、宮内庁が管轄しています。

2026.5.26 UP DATE