数珠の歴史

数珠の歴史(45) 五百羅漢の数珠(2)金剛智の数珠

(前回より続く ※クリック)

 釈尊の説法を聴き、呪を数えるための数珠作りを命じられた数珠屋の娘ですが、白毫から放たれた光を浴び中で、気が遠くなり、そのまま眠りに入りました。目が覚めると、側で辟支佛(びゃくしぶつ・羅漢)が娘を見つめていました。

「ようやく目が覚めたか」
「私は、どうしたというのでしょうか」
「釈尊が放たれた光に包まれた後、インドの南に参った」
「インドの南でございますか?」
「そうだ、ここは獅子国のアヌラーダプラ。インドの南にある島。これから金剛智様に会いに参りる。」
「金剛智様? その御方はどなたですか」
「密教を修められた師である。そなたに相談があるとのことだ」

 数珠屋の娘がいる獅子国は現在のスリランカの都。

金剛智は七世紀に南インドに生まれ、10歳で北東インドのナーランダ僧院に入り大乗仏教や戒律などを学びました。その後、南インドで龍智について密教の経典を七年にわたり学び、五部の灌頂を受けた密教僧。その後、獅子国(スリランカ)に招かれ、さらに海路を経て中国・唐に密教を伝えることになります。

数珠屋の娘の前には優しい笑みを湛えた金剛智がいます。

「よく参った。おまえは釈尊から呪を数える数珠を作るように命じられたと聞いておるが」
「はい、たしかに釈尊から命じられました」
「呪を数える工夫はできたか」
「それは・・・・」

 数珠屋の娘は思わずうろたえました。釈尊の額から放たれた光に包まれ気を失って、気がつけば南インド。考える時間などあろうはずがありません。

「その通り、お前には時間がなかった。これから私が知る密教をおまえに伝えるので、その中で考えるがよい。難しくはない、そなたの体の中に教えが入るはず」

 金剛智は密教、金剛頂経の教えを語り始めました。娘はその教えを耳だけで聴くのではなく、身と心を澄まして受け容れました。

どれだけ時間が経ったでしょうか。金剛智は語るのを終えました。その時、数珠屋の娘はどのように数珠を作れば良いのか、はっきりと理解しました。

「金剛智様、穴を穿った水精の珠をご用意して頂けますか。大きめの玉には三方に穴を穿ってください。そして穴の中をよく磨いてください」
「分かった、用意させよう」
 金剛智は側の者に水精の珠を用意させるように命じると
「数珠が出来た後、知らせよ」と伝えると、辟支佛と共に娘の側を離れました。

 娘は揃えられた水精の珠を見ると、まず糸を縒り始め、縒った糸をさらに縒り、縒りが終わると、水精の玉に縒った糸を通し始めました。

「三つの穴が穿たれた大きな玉に糸を通し、両側から来る糸を中央の玉に通して垂らし、そこに小さな玉を通して、呪を数えるための玉とすれば、呪を称えるための完成された数珠となるはず」

 娘は数珠が完成したことを辟支佛に伝え、辟支佛につきそわれて金剛智の僧坊に赴き、数珠を金剛智に渡しました。
 数珠を受け取った金剛智は大きな玉(親玉)から下がる小さな玉(弟子玉)を上下させ、その出来具合を確認すると、大きな笑みを湛え

「良きかな、良きかな。よくぞ考えてくれた」と数珠屋の娘の仕事を讃えた上で、「娘よ、私はこれから海路、唐(中国)に向かい、彼の地に密教を伝える。おまえも共に来るがよかろう」伝えました。

 娘の海路を経ての唐への旅が始まります。(次回に続く)

※金剛智(671〜741)は真言八祖のうち「付法の八祖」では第五祖、「伝持の八祖」では第三祖となります。南インドに生まれ仏教と密教を修学した後、海路唐に向かい、洛陽で密教を弘めます。真言八祖の僧のうち、金剛智は右手に数珠を持ちますが、奈良国立博物館に所蔵される真言八祖像(鎌倉時代に制作)の中での金剛智が持つ数珠は弟子玉を具えた形式となっています。この真言八祖像の元となったのは、空海が唐より将来した真言七祖像であると推定されますが(教王護国寺蔵)、この真言七祖像のうち金剛智の肖像は剥落がひどく、持物の詳細を判別することができませんが、右手の様子から数珠を持しているものと思われます。

 金剛智の師である龍智は金剛智に密教を授けた際、すでに七百歳であったとされ史実は未詳ですが、真言八祖の第四祖とされています。