数珠の歴史
一遍は河内国は磯長の聖徳太子廟(南河内郡)に参った大和国の当麻寺(葛城市)、山城国の石清水八幡宮(八幡市)、播磨国の書写山圓教寺(姫路市)、備後国の吉備津神社(福山市)を経て安芸国の厳島神社にいます。弘安10年(1287)のことです。

一遍はどこに行っても歓待されました。一遍上人絵伝を見ると当麻寺では昼の御斎(おとき・食事)を盛大に受けている場面、たくさんの食事が運び込まれ、皆がお腹いっぱいに食べている場面が描かれています。石清水八幡宮近くの淀では踊り屋を設け、時衆が踊り念仏を興行したくさんの人を集めました。描かれた時衆の姿の中央にいるのが一遍で、一遍は必ず数珠を手にしていました。

数珠屋の娘は一遍たち時衆と聖徳太子廟に参った後、四天王寺あたりの店棚に戻り、今は安芸国の厳島神社に共に居ます。厳島神社では内侍(ないし)と呼ばれる女性達が妓女の舞を披露します。まるで菩薩の舞のような美しさで、回廊の奥の中央に座る一遍は数珠を手に持ちその踊りに見入りました。一遍の並びの時衆も皆数珠を手にしています。285コマ
今は「神社」と「お寺」を分けて考え、おまいりの「しきたり」も違うものとしますが、こうした「神社」と「お寺」を分けるのは、明治時代以降のことで、一遍の時代は神社とお寺は表裏の関係でした。一遍自身、念仏の札を衆生に賦算(配布)しはじめのたのは、熊野の地で熊野権現から「信心おこらずともうけ給へ」と念仏の札を受け、「信不信をえらばず、浄不浄をきらわず、その札を配るべし」と神託を受けたことが、機縁となっています。

この時代、厳島神社には十一面観音が祀られていました。奈良時代の行基(668~749)作と言われる仏像で、平清盛は深く観音菩薩を信仰していたこともあり、装飾された『法華経』を厳島神社に奉納しています。数珠屋の娘は一遍とは逆側の回廊に座り、社殿の向こうに見える弥山(みせん)を見つめていました。
(あしたの朝、弥山に登り、朝日を拝もう)
厳島にそびえる山のことを弥山と呼びます。仏教の世界観の中で象徴的な須弥山(しゅみせん)から名付けられ山で、高さは500メートルながら峻険な山です。
日の出前に仕度を調えた数珠屋の娘は弥山を登りはじめました。暫く登ったところで、暗がりの中で松明を手にした人の姿が見えました。
「一遍様」
「娘よ、私も共に弥山を登り、朝日を拝もう」
「ありがとうございます」
一遍の供が持つ松明のおかげで、全くの暗がりの中の山道を、娘はなんとか登ってゆきます。そして頂上に近づいた頃、空が少し白ばみ始めました。
弥山の頂上に立つと空が紫から赤に染め上がり、太陽が昇りはじめました。 一遍は数珠を手に「南無阿弥陀佛」と称え、娘も、供の者も皆、数珠を手に「南無阿弥陀佛」と称えました。まさに浄土の中にいる瞬間となったのです。
※『一遍上人絵伝』を元にしたフィクションです
2026.6.25 UP DATE