数珠の歴史

京洛は一遍上人の一行が来られ念仏踊りを修されるという話で満ちていました。時は弘安7年(1284)、この3年前には元と高句麗の連合軍が対馬・壱岐に来襲しましたが、北条時宗の指揮により撃退されていました。
天王寺あたりの数珠屋の娘は「念仏踊りに合わせて数珠の店を出してもらえぬだろうか。我々の時衆の持つ数珠の直しもお願いしたい」という一遍からの手紙を貰い、踊念仏の舞台の建前が行われている七条大路の東堀川に簡単な店棚を拵えました。周りには似たように店を出す者がたくさん居ます。
「あなたが数珠屋の娘さんかな」と一人の僧が訪ねてきました。「はい、そうでございますが、どのようなご用事でしょうか」「一遍上人さまから数珠の直しを与って参りました。この袋の中に入っております」
時衆の僧が持って来た袋の中には、ざっと百連ほどの数珠が入っていました。切れた数珠を自分で結び直した数珠も入っています。
「ずいぶんとたくさんの数珠でございますね」
「初めて念仏踊りをしたのが信濃国は小田切の里でございました」
「はい、その時には、大井太郎の姉上様より数珠のご注文を頂きました」
「その後は鎌倉に入ろうとして入ることができず、片瀬(現在の藤沢)の地蔵堂で念仏踊りを修し、都に入る前には、近江の関寺で念仏踊りを修しました」
「ずいぶんと人気のようですね」
「はい、たくさんの人にお集まり頂いています。今回は、今お渡ししました数珠の直しの他、新しい数珠を千連お願いします」
「千連ですか?」
「男物と女者をそれぞれ五百連ずつ。一遍上人は御寄進頂いた方全てに、数珠をお渡しすると申されています。もしかすると、念仏踊りを見に来られた方すべてに、念仏賦算と数珠をお渡しになるのかもしれません。近江の関寺(現在の大津)で念仏踊りをした時も、数え切れないほど多くの方々が集まりました」
「念仏踊りはいつでございますが」
「ひと月後です」
「承知いたしました」
(千連もの数珠)と数珠屋の娘は驚きました。まさか、一遍上人の念仏踊りがそれほど人気を集めているとは知りませんでした。
近江笠寺での念仏踊りの後、一遍は四条大路と東京極が交差する辺りの釈迦堂で南無阿弥陀佛と記された札を配っています。賦算(ふさん)と言われるこの札配りに無数の人々が集まりました。五台の牛車も描かれ、一遍上人絵伝ではこの時の様子が詳しく描かれています。
さらに七条大路と堀川通りの辺りに踊小屋(舞台)を作り、そこで48日間にわたって念仏踊りを行います。この地は空也上人ゆかりの地でもありました。空也(903〜972)は肩から鉦鼓を吊り下げ、右手に持った槌で鉦鼓を叩きながら念仏をし、口称する南無阿弥陀佛の六文字が仏の姿となって口から湧現する姿で知られています。一遍は空也を慕い、ゆかりの地で念仏踊りを行ったのです。
『一遍上人絵伝』では、踊小屋に周辺に無数の人々が集まり、これを観る姿が描かれています。踊小屋の右側には観覧席も設けられ、そこでは飲食をしながら念仏踊りを観る人達の姿も描かれています。
四天王寺あたりの数珠屋の娘も四十八日の間、数珠作りで日の出から日没まで忙しくしていました。玉や糸の材料はあっという間に使い果たすため、京洛の材料屋からも日々仕入れを行い数珠を作り続けました。
※一遍上人絵伝を参考にしたフィクションです。
2026.4.24 UP DATE