数珠の歴史

数珠の歴史(58) 親鸞の数珠

 比叡山横川ですでに二十年を常行三昧で過ごしてきた親鸞は悩んでいました。常行三昧堂では、阿弥陀の名を称えながら右繞します。南無阿弥陀佛を口に称えながら、時計回りに三昧堂を果てしなく回るのですが、親鸞には阿弥陀如来に出会うという奇瑞に全く出会うことが出来ませんでした。常行三昧に疲れて眠る中で阿弥陀如来に出会うことはあっても、それは朧気なものでした。眼で見て阿弥陀如来の確証を得ることができなかったのです。ここしばらくでは京の東山・吉水で「念仏を称えさえすれば極楽に往生できる」と伝える法然の噂を耳にしており、法然の下で念仏行を続けたいという思いが、日々強くなっていました。

 親鸞は山を下り、まず向かったのは聖徳太子ゆかりの六角堂頂法寺でした。聖徳太子は587年、小野妹子と共に京を訪れ四天王寺建立のための用材を探します。その際、池で沐浴するために念持仏を木に掛けると、念持仏がその木から動かなくなり光りを発しながら「自分はこの地で衆生を済度したい」と伝えたために、そこに堂宇を建立。親鸞は得度する直前に、師の慈円に連れられて六角堂の近くの市で数珠を求めています。子供が持てるやや小さめの数珠でしたが、比叡山での常行三昧では、常にこの数珠を繰っていました。もちろん数日で数珠は切れますので、自分で直してはこの数珠を持ち続けていました。

(あの数珠の店はまだあるだろうか、たしか四天王寺辺りの数珠屋で、定期的にやって来ては数珠を並べていたと聞いていたが。おしゃべりな親父は小さな娘も連れてきていた)

 親鸞は使い込んだ数珠を手で繰りながら京の街を六角堂に向かいました。

 六角堂が見え始めると驚きました。子供の時に見た数珠屋が、そこにあったのです。店番をしているのは、女性でした。

(もしや、あの時に小さな女の子か)

 六角堂そばの数珠屋は、棚の上に数珠を並べているだけの仮の店でしたが、女性は親鸞を目に留めると「範宴(はんねん)さま」と声を掛けました。範宴(はんねん)とは、親鸞が青蓮院で得度した時の法名で、比叡山から降りた時には、範宴の法名のままでした。

「娘よ、よく私の名を知っていますね」

「範宴さま、随分と以前にここで数珠をお求めになっておられます。師の慈円様に連れられて来られました。慈円様には、度々数珠をお求めいただき、その都度範宴様のお話は耳にしておりました。比叡山の常行三昧堂でおつとめされていたと」

 慈円(1155〜1225)は天台座主を四度に亘り務めた仏教界の重鎮です。「徒然草」には慈円は一芸に秀でた者を可愛がったとあり、数珠屋の娘は数珠玉と紐や房を携えて、慈円の前で数珠を作ることがありました。

 範宴こと親鸞は自分のことを知っている数珠屋の娘に驚きました。

「私は比叡山での常行三昧を終えて、これからしばらくは、こちらの六角堂で参籠する」
「そうでございますか。常行三昧では阿弥陀様にお会いになられましたか」
 範宴は返す言葉を失いました。
(会えなかったから山を下りたのだ)
 「範宴さま、今お持ちの数珠では、阿弥陀様にお会いすることは難しかったのではないでしょうか。その数珠のままでは、この六角堂で聖徳太子様にお会いすることはできませんよ」
 範宴は娘の言葉にたじろぎました。
「なぜだ」
「よい数珠こそが、心を集中させ、心を奥深くまで降りるとことを助け、そこで真実の自分と仏に会うことを助けるからです」
範宴が持つ数珠は、随分と傷んだものでした。
「範宴さま、今お持ちの数珠の玉を活かして私が新しい数珠をお作りしますので、その数珠をもって参籠なさいまし」
 範宴は自分が手にしている使い古した数珠を見ました。(この娘の言う通りかもしれない)。範宴は数珠を娘に渡しました。

「いつできる」
「明後日、お越しください」
「では、よろしく頼む」

この後、範宴はそれまでの数珠の玉も入れた真新しく美しい数珠を手にして六角堂に百日参籠し、95日目に観音菩薩(救世観音)の姿をした聖徳太子と出会い、お告げを得ます(夢告)。

「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」

※現代語訳 修行者が前世からの宿報により女性と交わるのであれば、私が美しい女性となってあなたと交わりましょう。そしてあなたの一生を清らかなものとし、臨終にあたっては極楽へと導きましょう

 範宴こと親鸞は、夢とも現とも分からない中で、観音菩薩と出会い、温かく包まれながらお告げを得ることができました。それはまさに親鸞が望んでいた深い体験であり、親鸞は思わず数珠を握りしめました。
 参籠を終えた範宴は、数珠を手にして法然の居る吉水の法庵へと向かいました。法然の弟子となるためです。

※この物語は親鸞聖人の伝承を元にしたフィクションです。