数珠の歴史

数珠の歴史(68) 時宗宗祖 一遍の数珠(4) 念仏踊り

 天王寺あたりの数珠屋の娘は、信濃国から届いた手紙を読んでました。

 「ああ、一遍様は信濃の国に行かれて、そこで念仏踊りを始められたということかしら」  一遍は四天王寺金堂で自誓授戒をされ、西門で「南無阿弥陀佛」と自らが書いた札を人々に配っていました。その時、妻である超一が娘に数珠の修理と、喜捨を頂いた人々に配る数珠をつくったことがあります。

 今回、信濃国から届いた文には吉夢のことが記されていました。

「私はもともと仏法にはまったく関心がございませんでしたが、一遍様が近くまで来られているとお聞きしました。すると夢の中に小仏が行道する中に背の高い一遍上人の姿が見えたと思いましたら目が覚め、陰陽師を呼んでこの夢が吉夢なの凶夢なのかを占わせたところ吉と出ました。そこで一遍上人と同行の方々を屋敷に入れたところ、鉦を叩き、念仏を称えながら踊る念仏踊りが始まったのです。私は踊りの外で念仏を称えながら小躍りしましたが、もうそれは興奮してしまって、はっと気付いたら数珠が切れてしまいました。踊りが終わった後、散った玉を集めている私に一遍上人が『四天王寺あたりの数珠屋の娘に直しを頼めばよい』とおっしゃてくださいました。この数珠の仕立て直しと、男物の数珠を200連、女性用の数珠を200連お願いします。」文と共に届けられた箱には数千貫文の宋銭がつけらていました。

 文の主は大井太郎の姉。武士である大井太郎の屋敷で一遍は同行と踊り念仏をしたのです。この時、大井太郎は勧進に来た一遍を「一遍様のお名前のことは京からの便りにてよく存じ上げております」と快く屋敷に入れ、喜捨をすると「さあ、構わずに念仏を始めなされ」と念仏を許すと、一遍たちは鉦を鳴らし、足を踏み、念仏を称えながら念仏踊りを始めたのです。噂を聞いた近隣の僧俗男女が集まり、念仏踊りに加わり、皆ともに無我の境地で踊りをしました。

 この念仏踊りは三日三晩続けられ、集まった人の数は5、6百人と言われます。このために、屋敷の床が抜けてしまったと「一遍上人絵伝」には記されていますので余程の熱狂だったことが分かります。

 一遍の念仏踊りは、敬愛する空也上人(くうや・903〜972)から始まったとされます。空也は市の聖(ひじり)とも呼ばれ、口称(くしょう・口にとなえる)念仏を人々に勧めたことで知られ、疫病退散のための「空也踊躍念仏(くうやゆやくねんぶつ)」は京都・六波羅蜜寺で毎年12月に行われています。