数珠の歴史

数珠の歴史(44) 五百羅漢の数珠(1)釈尊が教た数珠「木槵子経(もくげんしきょう)」

 冬の寒さがようやく緩み、桜の花が咲く頃、四天王寺あたりの数珠屋の娘は京都の大寺に呼ばれました。鎌倉幕府の肝いりで大きな供養会が京都を舞台に開かれるとのことで、数珠を供養僧に全て持たせたいとのことでした。娘は供の者と大寺に着くと庫裏の小部屋に通されました。開かれた蔀戸(しとみど)の向こうには小さな庭があり、人の足を象った石が置いてありました。

「あの人の足を彫り込んだ石は何でございましょうか」と娘は案内の小僧に聞きました。
「お釈迦様の足の裏を象ったもの、と聞いております」
「お釈迦様の足の裏・・・」

 足の裏には法輪が見えており、春の暖かさに包まれた空気の中、白い蝶々がひらりと飛びながら、その法輪の中央に降りました。
「蝶々が・・春が来たのね」と娘はつぶやくと、難波からの旅の疲れもあり、眠気が湧き出て柱にもたれかかりながら眠りに入りました。

 暫くして目が覚めると、春だというのに夏のように暑さです。目がはっきりと覚めると、鬱蒼と繁った木立が自分を取り囲んでいました。
(私はどこに居るの? 夢かしら)
「娘よ」と声を掛けられ、はっとして娘は後ろを向くと、異相の出家が娘を見つめていました。浅黒い肌、大きな鷲鼻、そしてまるで水精のような目。
「見慣れない姿、一体どこから参った」
娘はどのように応えてよいのか分からず身を固くしたままでした。
「もしや、ブッダの説法を聞きにきたのか」
「ブッダ?」
「そう悟りを開かれた尊師のこと。最近は女性でブッダの話を聞きたいという者が増えているからの」
「・・・・」
「よろしい、ついて参れ。今日は隣国の波流離王(はるりおう)の使いがきており、ブッダが教えを示される」 
(波流離王?)、娘はどこかで聞いた王の名前だとしばらく考えていましたが、その王の名前がどなたのか思い出しました。
「源信様の念仏講の時、たしか、数珠の木槵子経のお話があって。その中で波流離王の名前が」
娘は気づきました。今、自分が京都から遠く離れた天竺(てんじく・インド)に居ることを。そしてブッダ、お釈迦のお話を聞くことができることを。

 異相の出家は数珠を取り出すと「私についてきない」というと、歩き出しました。異相の出家が持つん数珠は二十数玉の小さな数珠です。
「出家様、その数珠は?」と娘は歩きながら聞きました。

「私は辟支佛(びゃくしぶつ)、修行の途中、悟りまではまだ遠い」
「辟支佛?」
「羅漢とも呼ばれている」
(ああ、この方のお姿こそ、羅漢様)と娘は思い出しました。肩をはだけ、堂々とした体躯。娘は奈良の寺堂で羅漢の姿を描いた絵を見たことを思い出しました。

 暫く歩くと大きな菩提樹の下にたくさんの聴聞の人々が集まっているのが見えました。菩提樹の下には結跏趺坐している御方が見えます。
「今日は千二百五十もの聴聞の菩薩、辟支佛、仏法を願う人々が集まっておる。目に入るであろう、菩提樹の下の高座にお坐りになっておられるのがブッダじゃ」
 娘は鳥肌が立ちました。お釈迦の説法を本当に聴くことができるのです。
 娘は集まる衆の最後列に座りました。異相の出家はブッダの側に移り、ブッダの前で香りの木を焚きました。香りは微かに娘の元にも届きました。
(ああこの香りは伽羅の香り)

 暫くして人々の塊が割れると、そこに華やか衣装を身に付けた波流離国の使者と二十名ほどの家来が進みブッダの前に進むと、五体投地をしてブッダを拝しました。
使者を静かに見つめるブッダでしたが、使者は全く別のことを考えていました。

 波流離王の母は釈迦族の大臣と下女の間で生まれた娘でした。美しい娘でしたが、そのことを後に知った波流離王は釈迦族を滅ぼすことを心に決めました。このたびの使者は釈迦族の王子であったブッダに波流離王のコーサラ国に従うように伝えるためにやって来たのです。

 静かに坐していたブッダでしたが、口を開くと大地が震えるほどの大音声を発し、限りなく長い舌を出し、額の白毫(びゃくごう)は額から見る間に伸びたかと思うとまばゆく照らす光となり、最後に指をパチリと鳴らすと、使者を見つめました。

「ブッダ、今日は私が参りましたのは」と使者は話はじめましたが、出てきた言葉は波流離王から託された使命とは全く別のものでした。
「我が国では人心が乱れ盗みが多く(寇賊・こうぞく)、穀物は値上がりし(五穀踴貴)、病気が流行り(疾病流行)、国民は困り果てており、私自身も安心して眠ることができません。どうかブッダの慈愍により、国民の苦しみを取り除いてください」
 使者はコーサラ国への従属を伝えるのではなく、自国の本当の窮状をブッダに伝えたのです。

釈尊は教えを示しました。
「百八の木槵子を貫き、十、二十と、百、千、万とつまぐると良いだろう。百万をつまぐれば皆安心して生活ができるようになる。お前の心の中に渦巻く怨憎会苦も数珠により解き放たれるであろう」
 使者は自分の心を見透かされたことを知り、思わず畏怖を感じました。
「有り難い教え、ありがとうございます。国に戻り次第、全国民に数珠を持たすようにします。しかし、つまぐる回数は、どのようにして数えればよいのでしょうか」
「それは、遙か東方より来た娘が考える」
 釈尊の手にはいつの間にか百八の無患子の実から成る数珠が握られていました。娘はその数珠を見て(何かが足りない)と感じましたが、何が足りないのかが分かりませんでした。

 ブッダは額の白毫を伸ばし、再び光りを放ち、その光を娘に向けました。
 娘は自分の体がブッダの光で満たされることを感じました
(これから私はお釈迦様が言われる数珠を作る)

 ブッダの教えを聞いた後、辟支佛が側に来て娘に伝えました。「ブッダの仰せにより、私とお前は東の向けて旅立つことになる。数珠を東方に伝えるために」

※この物語は、「木槵子経(もくげんしきょう・もくげんじきょう)」と大徳寺(京都)蔵「五百羅漢像」を元にしたフィクションです