数珠の歴史

数珠の歴史(43) 奝然(ちょうねん)の数珠 優塡王(うでんおう)釈迦思慕像の香木で数珠を作る

 文殊菩薩が在します中国・五台山(現在の中国山西省)にいる奝然(ちょうねん)は、大花厳寺で文殊菩薩の奇瑞を目にしていました。真容院で文殊菩薩の真言を三百人のもの僧俗と称え、その真言が堂内に満ち心が仏の世界に繋がった時、本尊文殊菩薩の右耳から光が放たれ、しばらくの間、三百人の僧俗を慈光で照らしたのです。さらに雪と雹が降る五台山東台に登る際、三高帽を(株)理靴を履いた白い鬚鬢の老人と出会います。奝然の目に入ったのは、まず数珠を持つ手であり、瞬間にしてその老人が文殊菩薩の化身であることを悟りました。老人は柄香炉を持つ従者と錫杖を持つ従者を従え、五体投地を行う奝然ら一行の側を通り過ぎていったのですが、その老人は奝然の側でしゃがみ、丸めた数珠で奝然の頭を五度撫でました。奝然は文殊菩薩の奇瑞に触れ、しばらくはその場から離れることができないほどででした。

「娘よ、私が出会った文殊菩薩の奇瑞とはこのような物語だ」

 四天王寺あたりの数珠屋の娘は奝然の話に夢中になり、文殊菩薩の奇瑞とはどのようなものかと思いを巡らしました。

 奝然は平安時代後期の東大寺僧(938〜1016)。東大寺で三論宗と密教を学び、若い時から入宋を目指していましたが、その願いが叶うのはようやく45歳の時のことです。当時、日本とは宋との正式な国交がなく、朝廷は入宋の許可を出すことを長くためらっていたのですが、永観元年(983)、朝廷が黙認するかたちで、奝然は宋の商船に乗り入宋を果たします。

 宋では天台山に巡拝した後、時の都である開封(現在の河北省)に向かい、皇帝太宗に謁見、太宗は紫衣と法済大師の号を与え、大蔵経五千四十八巻を奝然に与えました。そして優塡王思慕釈迦像(うでんおうしぼしゃかぞう)を拝することを許し、文殊菩薩の聖地である五台山への巡拝の便宜を図ります。

「おまえに来てもらったのは、お釈迦様の生き写しとされる優塡王思慕釈迦像を作った際に余った栴檀の木で数珠を作ってもらうためだ」と奝然は数珠屋の娘に語ると「こちらに来なさい」と娘を誘い、仏殿に入り、優塡王思慕釈迦像の前に進みました。数珠屋の娘の前のその仏像はこれまでに見たことのないお姿の仏像でした。

「釈尊在世の時、釈尊に帰依した優塡王という方がおられた。釈尊が亡くなっていた母摩耶に法を説くために忉利天に行かれた際、釈尊のお姿がみえず思慕した優塡王が命じて作らせたもので、私は宋の地でこの像を見て、すぐに香木を買い揃え、仏師をやとい、模刻させ、我が国へと持って帰ってきた」


 優塡王思慕釈迦像はインドから中国にもたらされ、開封でそれを見た奝然が帰朝途中の台州で模刻をさせ、持ち帰ったもので、現在は京都の嵯峨釈迦堂と呼ばれる清涼寺の本尊として安置されています。清涼寺様式と呼ばれるこの釈迦像は、同時代の仏師たちの仏像とは全く様式の異なるもので、古代インドの仏像と共通した様式を持ちます。

 数珠屋の娘はこの釈迦像の様子に惹きつけられ、「私もいつか、生まれ変わった時、インドに行ってみたい。お釈迦様、どうぞ私をいつか導いてくさだい」と手を合わせました。

「娘よ、おまえに作ってもらう香木の数珠で、私も人々を導いてゆきたい。頼んだぞ」

「承知いたしました」娘は香木を預かり(どのような数珠にしようかしら)を思い柄を巡らしながら四天王寺そばへと帰りました。