山田念珠堂NEWS

数珠の歴史(4) 空海と数珠(1)

日本における真言宗の祖である弘法大師空海(774〜835)は、804年(延暦23)に遣唐使船に乗り唐に渡ります。805年には長安の青龍寺の恵果(746〜806)を訪ね、密教を学びます。そして僅か数ヶ月で胎蔵界と金剛界の両部の潅頂を受け、さらに伝法阿闍梨の潅頂を受け遍照金剛の潅頂名を与えられます。日本からやって来た留学生のこの才能は長安でも注目され、長安を離れ日本に帰る際に唐の皇帝から数珠を下賜されます。このことは空海の『御遺告(ごゆいごう)』に記されています。『御遺告』は入定を目前にした空海が、弟子に示した遺誡です。

恵果は真言七祖で、不空(705〜774)から金剛頂経系の密教を、大日経系の密教は善無畏(637〜735)門下の玄超から付法を受け、唐の皇帝からの帰依を受けました。

「菩提実の数珠は大唐の皇帝(帝皇)から下賜されたものであり、その時にはこの数珠を以て私と思い、私のことを永く忘れないように。私はそなたを師と仰ぐと申したが、東(日本)に帰るというのであれば引き留めようもない。後生は仏界で必ず会おう」と皇帝から言葉を賜ったと語っています。(菩提實數珠是大唐帝皇給勑矣即恩勑曰仁以此爲朕代莫永忘朕初謂公留将師而今延還東惟道理也欲待後紀朕年既越半也願一期之後必逢佛會)この時の皇帝は順宋もしくは憲宋と考えられていますが、この時代すでに数珠が人から人への想いを託す法具であったことはとても興味深いことです。

『御遺告』では空海が、当初この菩提実の数珠を師匠である恵果和尚から授かったものと弟子に説明したが、実はこれは皇帝から授かったのものであり、恵果和尚から授かったのは金剛子の数珠である、と説明しています。(先日誤注大師恵果之所給也但金剛子是大師阿闍梨耶所給亦諸道具大師阿闍梨耶付属也豈可軽哉)
 つまり空海は長安で二連の数珠を授かったことになります。

 空海は唐から帰国すると、唐から持ち帰った経典や法具の目録を作成し、朝廷に提出します。この目録は『御請来目録』と題されるもので、密教関連の経典、曼荼羅、密教法具などが多数記されますが、数珠はこの目録の中に入っていません。恵果和尚から付嘱されたものとしては仏舎利80粒、白檀の仏像、447尊が描かれた曼荼羅などを挙げており、これらのものは金剛智(671〜741)が南天竺から携えてきたものであることが記されています。この他には袈裟や鋺(まり)が授けられたことなど詳細に記されていますが、なぜか数珠のことには触れられていません。

 空海が皇帝より賜ったとされる菩提実の数珠は、現在、京都の東寺(教王護国寺)に「菩提子念珠」として蔵されています。

 掲載した写真は山田念珠堂にて菩提子念珠に倣って製作した「御請来念珠」で、古制をよく再現している数珠です。金具などにも意匠が凝らされています。

御請来念珠(山田念珠堂製)

 

御請来念珠桐箱入り(山田念珠堂製)