数珠の歴史

日蓮は佐渡は配流先である塚原三昧堂日々を過ごしています。
日蓮は文永8年(1271)9月13日に佐渡への配流が言い渡されると、鎌倉を出てすぐの片瀬龍ノ口(現在の藤沢市)で斬首を受けそうになりますが、光りの公験によりこれを免れ、その後、佐渡に向けて旅立ち、寺泊から小舟に乗り佐渡へと渡りました。佐渡に着いたのは10月下旬で、季節はすでに冬。墓場脇の塚原三昧堂と呼ばれる小屋が日蓮の起居の場となりました。
(小松原の法難に続いて、伊豆配流の法難、龍ノ口の法難、そして今回の佐渡流罪、法華経の行者としての私はどうしてこのような法難に遭わなけれならないのか)
日蓮は大きな親玉を水精で仕立てた数珠を繰りながら、思案を続けます。
(この数珠には法華経の力が宿っている。龍ノ口斬首の時には、水精が光りを集め私を護ってくれた。法華経の行者が持つべき数珠だ)
日蓮は両手に数珠をかけて、さらに数珠を繰ります。
(うむ、力が湧いてきた。私が著すべきは、法華経が導く世界のこと)
富木常忍(とき じょうにん)から送られてきた筆を執ると、文机に向かい、著作を記し始めました。富木常忍とは下総(今の千葉県)にあって日蓮の弟子、佐渡の日蓮を物心で援助していました。
(末法のこの世にすでに教主釈尊はおられないが、法華経如来寿量品にはあえて釈尊はその姿を隠されとあり、釈尊は久遠の寿命を持ち、遠い昔から現在そして将来に至るまで仏の世界を展開されることになる)
日蓮は目の前に久遠の釈尊の姿を見ながら、筆を進めます。この著作は日蓮の代表作である「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」、いわゆる「観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)」となります。
日蓮は筆を止め一息つき水精の数珠を繰り「南無妙法蓮華経」と唱えますが、パチンと数珠の糸が切れて水精の玉が弾けるように飛び散りました。
「あっ、玉が」と叫び仕えの者が飛び散った玉を集めます。
(これは困った)と感じ入っている日蓮でしたが、その時、三昧堂の外に「大士さま、荷が届いております」と声があり、難波・四天王寺あたりの数珠屋の娘から書状と荷が届きました。(これは、数珠屋の娘からの・・・)
日蓮が荷を開けると、そこには水精の念珠が入っていました。書状には「大士様、佐渡での暮らしはいかがでございましょうか。お体にお気を付けてお過ごしください。下総の富木常忍様より大士様の数珠がそろそろ切れる頃なので、佐渡にお送りするようにとのお手紙を頂きましたので」とありました。(富木殿、そして数珠屋の娘よ、これは有り難い)
日蓮はぴんと張った真新しい数珠を手にして
「南無妙法蓮華経」と日蓮は唱えると机に向かい、数珠を左に置き、再び筆を執りました。
「法華経は月と月とを並べ、星と星とをつらね、華山に華山をかさね、玉と玉とをつらねたるがご如なる御経」(※「佐渡御書」より)
(玉を連ねしこの数珠こそは法華経)日蓮はつぶやきました。この言葉は、以前富木常忍に宛てられた手紙の中の言葉で、日蓮は数珠を繰りながら、この言葉を反芻することありました。
日蓮は佐渡において「観心本尊抄」を著しながら、大曼荼羅本尊と呼ばれる文字図像を顕しました。今に至るまで、日蓮宗における信仰の中心となってきたもので、日蓮の仏に世界観が表現されたものです。
日蓮が流罪を許されたのは文永11年(1274)の3月。佐渡から小舟に乗って対の越(こし・今の新潟県)を目指す日蓮。日の出の中、船は漕ぎ出ましたが、風が強く波もうねりがありました。
「今日は引き返すかもしれませぬ」と漕ぎ手の漁師は日蓮に告げます。
日蓮は船上に立つと、朝日を受ける水精の数珠を手に「南無妙法蓮華経」と高らかに唱えました。すると波間に「南無妙法蓮華経」の文字が出現し、波はたちまち鎮まりました。
「法華経の行者の功徳、そして数珠の功徳」と日蓮は漁師と供の者に告げました。
※この物語は日蓮の佐渡配流を元にしたフィクションです。
2025.11.26 UP DATE