数珠の歴史

数珠の歴史(41) 『平家納経』に見える数珠(4)平盛國の数珠

 平盛國は壇ノ浦の戦いで破れた後、源氏方の捕虜となり鎌倉の地につれてこられました。そのまま打ち首かと思われましたが、鎌倉殿頼朝の沙汰により家人岡崎義実に預けられ、義実の所領である相模国岡崎の庵居で暮らしていますが盛國は「命を絶つことを願わん」と深く心に決め、誰一人として話すことなく『法華経』を読む日々を続けていました。

「法華経分別功徳品」を開き、盛國が思い出すのは厳島神社に奉納した『法華経』の納経のことです。平家納経と呼ばれる『法華経』30巻『阿弥陀経』1巻『般若心経』1巻は、美しく飾られた料紙(特別に加工された紙のこと)に経文を端正な文字で墨書したもので、平安時代末期を代表する荘厳経として今に伝わっています。

 盛國は伊勢平氏の血筋で平清盛の信頼が篤い側近、清盛が『法華経』制作の発願をした時から清盛の命により「平家納経」制作に関わってきました。

「平家納経」の制作にあたり、盛國の頭をまず悩ませたのが、経巻軸に両端に取り付ける水精の飾りのことです。これは清盛がふともらした「水精で飾られた経巻はどうだろうか」というつぶやきを盛國が聞いたためです。

(それほどの大きさの水精をだれに頼めばよいのか)と盛國は頭を悩ませましたが、南都の仏師から「それなら四天王寺そばの数珠屋に賢く物をよく知る娘いるので、相談してみては」と聞き、早速数珠屋の娘の元に足を運んだのです。

それから丁度一年あまりで、数珠屋の娘は宝珠や宝塔の姿をした経巻軸先となる水精、それもとびぬけてよく磨かれた、を用意したのです。盛國は、宝珠や宝塔に仕上げられた水精の工藝を見て(なんと凄い)驚きました。「いかようにして」という盛國の問いに娘は近き海(琵琶湖)の南で水精の塊を入手したこと、二上山で研磨のための石榴石を入手したことなどをいかにも楽しそうに盛國に話しました。

『平家納経」 水精で作られた経巻軸

 盛國はその後も数珠屋の娘の元に何度か足を運んでいましたが、盛國の姉がそのことを聞きつけ「私も四天王寺様にお詣りしたい」と願い、盛國の姉は四天王寺に詣でた後、数珠屋の娘のところにも足を運びました。

 盛國の姉は、平治の乱で夫を亡くしており、盛國の言う数珠屋の娘に会う時、数珠を頼みたいと考えておりました。白湯を飲み一服すると、「蓮の花のような数珠を作ってはくれまいか」と数珠屋の娘に相談しました。

「蓮の花のような、といいますと、赤い蓮、白い蓮」と娘はつぶやきしばらく思案すると側の者に「墨の用意を」と言いつけました。

 墨の用意ができると娘は蓮の花を描き、そこに薄紅と胡粉も白を入れました。

「まあ綺麗な蓮の絵だこと」
「このような蓮のお数珠ではいかがでしょうか」
 盛國の姉は大きくうなずきました。
「出雲の瑪瑙、ちょうど波斯(ペルシャ)から入った珍しい瑪瑙があり、それと白玉を使います」
 平安時代、瑪瑙は出雲で産出されていましたが、波斯の瑪瑙も特別な玉として高位の都人の束帯の飾りとして使われており、娘は私貿易を行う商人から仕入れていました。
「できあがりが楽しみです。それでは私は四天王寺にお詣りに」
と盛國の姉は席を立ちました。

 盛國は数珠屋の娘と二人になると「姉の二人の娘、そして私にも数珠を作ってはくれまいか」と改めて数珠屋の娘に頼みました。
「もちろんでございます。姉君のお嬢様には彩りのある玻璃と水精で、盛國様には蓮の実を用い四天には水精で仕立てます」
「私の命はいつ尽きるかもしれない。そなたの仕立てた数珠を持って浄土に参りたい」と盛國は娘に語りました。

 鎌倉での囚われ人である平盛國は、食を絶っての自害を心に決めています。そして同じく壇ノ浦の戦いで我が子高倉天皇を無くし、今は都の大原の地で平家一門の菩提を弔う建礼門院に手紙をしたためました。
(建礼門院様がお持ちの数珠も、たしかあの四天王寺の辺りの数珠屋の娘が仕立てたもの。私の数珠は私亡き後は、建礼門院様に送り、私自身の魂として供養してもらうことにしよう)
平盛國が亡くなった後、二ヶ月ほどで建礼門院は盛國からの文と数珠を受け取りました。

(そうか、盛國も果てたか)

 建礼門院は仏前に盛國の魂である数珠を置くと、手を合わせ菩提を弔うのでした。

 平家納経「分別功徳品」は出家し数珠を持つ尼、傍らには二人の女御、そして烏帽子をかぶる男が描かれていおり、巻末には左衛門少尉平盛國の名前が記されています。今回は、出家の尼を平盛國の姉、二人の女御を姉の娘、そして烏帽子姿の男を平盛國に見立てた物語です。

平家納経「分別功徳品」に描かれる蓮は、ひときわ美しいものです。蓮の花の咲く様はまさに仏の世界。数珠は仏の世界に導いてくれる法具となります。


※これらの物語は『平家納経』に見える数珠をモチーフにしたフィクションです