数珠の歴史

数珠の歴史(67) 時宗宗祖 一遍の数珠(3)熊野での神託

「これが、お大師様請来の数珠でございます」
 四天王寺あたりの数珠屋の娘は、丹誠込めてつくり上げた弘法大師ゆかりの筺の蓋をはずし、中に納められた数珠を一遍に渡しました。一遍は筺から数珠を取り出し数珠の張り具合を確かめめると「おお、この数珠でこそ、高野、熊野への巡礼が不思議なものとなる」と確かに声でつぶやきました。
 娘は思わず聞き返しました。
「不思議なもの、でございますか」
「その通り」

 一遍と妻の一超たちは、高野山に向かいます。一遍が生きた鎌倉時代は高野山金剛峯寺から熊野三山に向けての巡礼路が確立し、たくさんの人々が巡礼を行いました。特に熊野三山(熊野本宮大社 熊野速玉大社 熊野那智大社)の巡礼は平安時代の宇多院、白川院という天皇の巡幸、鎌倉時代の後白河院に至っては34回も熊野に詣でたとされます。京の都から熊野までの旅は、日数もかかりますし、そう簡単なものではありませんでしたが、この時代は「蟻の熊野詣で」と言われるように、無数の人々が熊野を目指しました。

 一遍が四天王寺から高野山、熊野を目指したのは文永11年(1274)頃のことです。

 弘法大師ゆかりの数珠を手に握る一遍が熊野の山中で、熊野権現に出会い、神託を受けます。

「融通念仏すすむる聖、いかに念仏をばあしくすすめらるるぞ。御坊のすすめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定するところなり。信不信を選ばず、浄不浄をきらわず、その札を配るべし」

 一遍は四天王寺でもすでに「念仏往生六十万人」と記された念仏札を配っていましたが、この札を熊野山中で出会った僧に渡そうとして、拒否されます。この僧の拒否の意味は「おまえの功徳で極楽往生できるのではなく、阿弥陀如来の悟り(正覚)により往生できるのであって、人を選ばず札を配りなさい」というものでした。

 熊野山中で出会い、渡そうとした札を拒否した僧ことが、熊野権現で、一遍にとっては神託となり、これを機に「南無阿弥陀佛 決定往生 六十万人」と記された札を配るようになります。この札は、人々の極楽往生を決定するものとして、一遍は人を選ばずに配るようになったのです。

 この時代、例えば「南無阿弥陀佛」と記された札を、僧侶から預かることは随分とご利益のあることでした。一遍と同時代の人である、親鸞の実の息子である善鸞は、こうした札を配ることにより、親鸞の教えを弘めようとしましたが、こうした布教の姿が異端とされ、親鸞から絶縁されます。人々にとって札を頂くことは極楽往生を約束されることと同時に、健康や繁栄を生み出すものでした。