数珠の歴史

数珠の歴史(62) 日蓮の数珠1 辻説法で小松原の法難を明かす日蓮

四天王寺あたりの数珠屋の娘は、東国鎌倉に来ていました。源頼朝の御台所北条政子のための数珠を作って以来、執権北条家から数珠の依頼を受けて、数年に一度ですが、数珠の材料を入れた笈を背負い、お供と共に鎌倉に来るようになっていました。今回は、建長寺の住持となった蘭渓道隆からの依頼を受けて数珠を作るための鎌倉の来たのです。

 娘は由比の浜で大きく海風を吸いました。数珠のお棚がある四天王寺も海み近いのですが、この地に海はまた格別に美しいものでした。

 娘は海を背にして鶴岡八幡宮に向かって歩き始め暫くすると、人だかり見え、やがてその中央では一人の僧が大音声で「南無妙法連華経と称えれば、皆、やがて仏となる」と説いていました。やがて数珠を爪繰りながら目を閉じ「南無妙法連華経」と称え始めると、取り囲んだ人々も手を合わせて「南無妙法連華経」と称えます。

 娘は僧が手に持つ数珠に目を奪われていましたが、やがて
「あっ、私の数珠が切れる」と叫ぶと同時に、僧が持つ数珠は中を通す紐が切れ、玉がぱらぱらと周囲に飛び散りました。娘はもちろんのこと取り囲んだ人達は飛び散った数珠の玉を集めます。

「皆さん、数珠の玉は私にお渡しください。私が仕立て直します」
 僧はひざまづき、足元に落ちた親玉を拾うと娘に手渡しなが問いかけました。
「娘よ、そなた、数珠が切れる前に、私の数珠が、と叫んだが」
「御出家様、たしかに叫びました。私がお作りした数珠だからです」
娘は渡された親玉を見ると刃物で切られたような割れがあることに気付きました。
日蓮は少し考え、
「もしかすると、そなたは四天王寺辺りの数珠屋の娘か」
「はいそうでございます。お懐かしゅうございます」

 日蓮は安房(現在の千葉県の房総)で生まれ、地元の清澄寺で出家得度、その後虚空蔵菩薩の感応を受けた後、比叡山を中心とした畿内で修学したのですが、四天王寺を訪れた際に数珠屋の娘に数連の数珠製作を依頼したのです。硬い木玉で四天に水精を配した数珠でした。
「御出家様、この数珠は私が仕立て直しでお届けします」
「そうか、それは有り難い。では松葉ヶ谷の庵まで届けて下さるか。ここから南に歩いて近いところだ」「承知いたしました」
「ひとつ、頼みがある。親玉を大きな水精にしてもらえぬだろうか。雷光を集めることのできる数珠に。」

「そなたの数珠には実は命を一度助けられている。安房小松原で襲われた時に、数珠を刀に向けてかざしたころ、数珠が刀を受けてくれ、僅かに額を切られるにとどまり、命を救われた。」
「そうでございましたか。親玉の割れは、その時の刀傷なのですね」

 

 安房小松原で起こった日蓮への襲撃は「小松原の法難」と呼ばれ、地頭東条景信をはじめとする念仏者数百人が日蓮と弟子達を襲い、日蓮は額に傷を負い、弟子の数人が打たれたというものです。この時日蓮は43歳でした。

 日蓮の生涯を通して数々の法難に遭っており、39歳の時には松葉ヶ谷で幕府と念仏者によって襲われ、40歳の時には伊豆に流されています。

 数珠屋の娘が辻説法をする日蓮と出会った時、日蓮は40歳代後半となっており、この直後、佐渡に流されることになります。