数珠の歴史

数珠の歴史(39) 『平家納経』に見える数珠(2) 軸首の水精

「清盛様の発願によるものです」
と清盛から遣わされた側近は数珠屋の娘に告げました。その依頼とは経巻の先端に付けるという水精の話でした

「ここでお願いすると、素晴らしく透明な水晶に仕上がると南都の仏師から聞きました」というものでした。数珠屋の娘はしばしば都の仏師から玉眼の注文を受けており、その話を耳にしてのことでした。
「清盛様?」
「平清盛様です。清盛様とご一族がそれぞれ法華経を写経し伊都伎島神社に奉納します。お願いする水晶は納経される経巻の軸首となります。」
 使いの者は、巻紙を広げると、経巻の構想を記した図絵を娘に示した。『法華経』三十巻『阿弥陀経』一巻『般若心経』一巻、平清盛の『願文』一巻の合わせて三十三巻。平家一門が厳島神社に納経したことから『平家納経』と呼ばれる正厳の極みを尽くした経巻。その軸首の大半が宝塔、六角甲高など水精によるものです。
「この図絵を拝見しますと百近い水精の塊が必要となりますね」
「期間は1年ほどですが、お作りいただけますか」

 娘は静かにうなずきながら、水精の手配に思いを巡らし、早速、側の者に旅の支度を指示しました。

 水精を求めての旅は二上山(にじょうさん)から始まりました。二上山は娘が小さい時から幾度なく登ってきた山で、山頂から眺める大和の世界がとても好きでしたが、長じては二上山の上質の石榴石(ざくろいし)を手に入れること大きな目的になっていました。石榴石は水精を研磨するのに欠くことのできない研磨剤だったからです。
 二上山の石榴石は奈良時代から知られ、『続日本記』には斐太(ひだ)が石榴石を用いて玉石を研磨した功により大友史(おおとものふひと)の姓を賜ったことが記されています。石榴石を細密な粉粒にしたものは金剛砂とも呼ばれ研磨に欠かせないものです。

二上山の後に向かった南都・東大寺ではかねてよりご用を聞いていた水精や無患子の数珠を納め、その後、信楽へと向かいました。研磨の炭を探すためです。実はこの時代、研磨炭が使われていたという記録は残っていません。ただ、金工や漆芸の世界では、現在にいたるまで研磨用の炭、つまり呂色炭、駿河炭(油桐炭)、椿炭は欠かすことのできない研磨剤であり、この時代にも炭が使われていたかもしれません。そして、何よりも信楽の地は、数珠屋の娘にとってどこか記憶の中の懐かしい場所、はじめて数珠に出会ったような記憶を感じる土地でした。

 そして数珠屋の娘が今居るのは近つ淡海の田上山。現在の琵琶湖の南、田上山(たのかみやま)は古代より水晶の産地と知られてきた土地です。
 数珠屋の娘は地の質が生み出す様々な鉱物、水精や石榴石などに深い興味を持っており、山を歩き、鉱物を見ることが大好きでした。田上山は都を訪れた際に東の山の越えて、何度も訪れ自ら水精狩りをすることもありました。しかし、今回は平清盛様発願の法華経納経のための水精。あらかじめ使いをやり、径で2寸、高さで3寸以上という特別な大きさの水精が百ほどが必要と伝えていました。
「この水精の透明感は素晴らしい。今回、二上山で手に入れた金剛砂で磨けばさらに美しくなりますね」
 娘は思わず声を出しました。
「それでいくつ揃います」
「六十ほどです」
「あと四十は欲しい、必ず探してください」

『平家納経』は美しく飾られた荘厳経典として知られています。その経巻の軸首の大半は水精を素材とするもので、加工された水精がさらに錺で荘厳され軸首とされたものもあります。

 平家の時代、水精は畿内・淡海でも産出されていました。また研磨に必要な石榴石は二上山で産出されており、二上山の研磨剤は明治時代まで使われていました。

 今回は『平家納経』に思いをはせながら、この時代の水精の物語を記してみました。

※史実に基づくフィクションです。