数珠の歴史

数珠の歴史(26) 平清盛の数珠 生死を共にする法具

 前回は源氏の侍大将で征夷大将軍となった源頼朝(1147〜1199)の数珠を取り上げました。頼朝は巻狩りの時などに常に数珠を携行していたようで、周囲の東国武士達は皆、頼朝の数珠ことを知っていました。
 では平氏の平清盛(1118〜1181)はどのような数珠を持っていたのでしょうか。

「祇園精舎の鐘声、諸行無常の響あり、沙羅双樹の花色、盛者必衰の理を顕す。奢れる者も久からず、春の夜の夢の如し」で始まる読み物に『平家物語』がありますが、同様の書き出しで始まるのが『源平盛衰記』です。『平家物語』は語りを中心とした文学、『源平盛衰記』は読み物としての性格が強い、と言われています。『平家物語』では数珠の関する記述がほとんどありませんが(六代御前の数珠のみ)、『源平盛衰記』では数珠に関わる記述がいくつかあり、平清盛が持つ数珠についても記されています。

六波羅の宿所に参られたり。入道は左の手に蓮の実の念珠を持ち、右の手に蒲団扇を仕給て、大納言(だいなごん)に目も係ず、憤ある気色也。(『源平盛衰記』)

 このくだりは「澄憲祈ル雨事」という段の中のものです。入道とは平清盛のことです。

 澄憲(1126〜1203)はこの当時知られた比叡山(天台宗)の僧侶であり、その美声により説法上手としても知られ人気がありました。日照りが続く中で、承安4年(1174)澄憲は雨乞いを行い雨を降らせ、人々は澄憲の法力に感嘆しますが、澄憲は調子に乗って平氏の盛んなることを揶揄します。

 この場面に出くわした清盛の息子の大納言・平重盛(1138〜1178)は「父の耳に入るとまずい」と思い、清盛の宿舎のある京・六波羅蜜に出向きます。

 六波羅蜜の着いた大納言重盛は父である入道清盛がすでに「いらいら」している様子を見ます。清盛は左手に蓮の実の数珠を持ち、数珠の玉を盛んにつまぐり、右手には蓮の葉を編んだ団扇をぱたつかせ、怒りを噴き出していたのです。

 平清盛は51歳の時に大病を患いその後に出家します(仁安3年・1168)。出家する前から清盛は数珠を持っていたでしょうが、この六波羅密での清盛は僧形で、おおぶりな蓮の数珠を持つ姿は、なかなかの迫力であったでしょう。

 この時代は誰が味方になり、誰が敵になるのか全く分からない時代です。平安時代末期の政治権力は朝廷から、台頭してきた武士団である平家、具体的には平清盛に移ります。前時代までは天皇家と姻戚関係を深めた藤原氏が権力を持ちますが、藤原氏は貴族であり武力を持ちません。しかし、平家は武力集団です。

 平清盛の時代の朝廷の中心は後白河法皇(1127〜1192)で、清盛と後白河法皇の関係は外見上良好でしたが、次第にその仲は亀裂します。その中で起こった事件が平家打倒をもくろむ鹿ヶ谷の陰謀です(ししがたにのいんぼう / 安元3年・1177)。この陰謀の中心に居た一人が西光法師(? 〜1178)。『源平盛衰記』 では西光法師が捕らえられ、清盛の前に引き立たされる場面が描かれています。

其内に西光法師を召取て、大庭に引居たり。相国は素絹の衣を著、尻切はき、長念珠後手に取て、聖柄の刀さし、中門の縁に立ちて、西光法師を一時睨で嗔声にて、無二云甲斐一下臈の過分に成上

 清盛は素絹の法衣を着て、長い念珠を後ろ手に繰りながら捕られた西光法師をどなりつけます。この念珠がどのようなものであったかは分かりませんが、腰に刀を差し、後ろに回した手で長く重みのある数珠をちらつかせる、という姿からは清盛の怒りを感じることができます。

 西光法師は清盛から「身分の低いげす野郎」と罵られますが、「おまえの父親(平忠盛)は貴族から嫌われるほど身分が低かったろう」と言い返します。

 西光法師はこの後に拷問を受け斬首されます。

 このように書くと、平清盛はいつも苛立っている殺人者のように思われるかもしれませんが、敵方の将の子供、源頼朝を死罪とせず伊豆に配流したほどの温情の持ち主であり、温情により生きのびた源頼朝が次代において平家を滅亡へと追い込んでゆきます。清盛は死に臨んで「堂塔を建てて私を供養してはならない。頼朝の首をはねて我が墓の前に掛けよ。それが何よりの孝養であると」と自分の温情を悔いました。

 生死表裏の中にあって、数珠は生と死を繋ぐ法具でした。清盛も頼朝も数珠は自身の生死を共にする法具でした。