数珠の歴史

数珠の歴史(33) 慈恵大師良源の数珠

 元三大師(がんさんだいし)で知られる良源(慈恵大師・912〜985)の肖像は左手に独鈷杵を持ち、右手に数珠を持つ姿が定番です。鎌倉時代に描かれた良源の肖像はたしかに数珠を左手に持ち右手には五鈷杵、重要文化財指定を受ける金剛輪寺(滋賀県愛荘町)の良源木彫像の数珠は欠落しているのですが、その姿は数珠を持つことを彷彿とさせるものです。絵像では弟子玉、浄明玉などがあり、現代の数珠と同じ様式です。

 良源は第十八代の天台座主(比叡山延暦寺のトップ)であり、比叡山の規律を正すなどの取り組みをしましたが、その名を知られるのは「元三大師」としてであり、角大師(つのだいし)、鬼大師(おにだいし)の護符は験あるものとして今でも多く人が求めます。

 この時代の高僧名僧と呼ばれる人は概して女性にもてます。病気や懐妊出産の時など、宮中の姫君達は気軽に何度でも高僧を招き受戒を受けていました。戒を受けることは何か特別なことではなく、ちょっとした開運リラクゼーションでした。何よりも自分がひいきにする高僧に来てもらうことは胸ときめくイベントだったのです。

 良源は若い時から学僧としても行僧としても秀でた存在で、姫君達からの人気は絶大でした。良源は常に数珠を持っていたことから、姫君や女官たちも同じように数珠を持ち、良源と同じように数珠を爪繰ることとが流行るほどでした。

 良源が持する数珠のひとつは四天王寺あたりの数珠屋で作らせたものでした。水精の玉の輝きが素晴らしく、良源はこの数珠を愛用しました。何よりもこの数珠を手にして呪文を称える時、その験は一層力のあるものとなりました。

 噂を聞きつけ、宮中の女官たちもこぞって四天王寺あたりの数珠屋で数珠を作らせるようになっていました。 
 ある日、この数珠屋の娘が、宮中に数珠を届けに行き、屋敷に仕える男に数珠を渡した時、女官の一人が気がつき数珠屋の娘に声をかけました。この女官は姫君達との間に入り、たびたび数珠の注文を出してくれていました。

「今日は、良源様がここに来られるわ。あなたも一緒に御法話を聞きましょう。大丈夫、着る物は私が用意するわ」

 こうして娘は良源の法話を聞くことになったのです。

 姫と仕える女官が集まる部屋に入ってきたのは見目麗しい僧侶。若き日の良源です。良源は『法華経』による女人成仏を説き、女官たちはうっとりとしながらその話に聞き入っていました。数珠屋の娘とはいえば、几帳(きちょう)で隔てられた隣の部屋で耳をそばだてていましたが、女人成仏の話は胸に響くものでした。その後、念仏による功徳、極楽浄土の様子を説き始めると良源、姫君と後ろに控える女官のいる空間はさらに濃密なものとなっていきました。

 良源は話を終えると今度は静かに響く声で『首楞厳経(しゅりょうごんきょう)』の一節を唱え始めました。良源が唱えた『首楞厳経』は淫欲の魔をはねのける力を持つ部分。読経が暫く続くと突然姫君と女官は叫び声を上げて数珠屋の娘が居る部屋へと逃げてました。倒れた几帳の向こうではそれまで良源が居た場所に鬼が居座り、こちらをにらんでいます。鬼は数珠屋の娘に「おまえは私のことが怖くないのか」と聞きましたが、数珠屋の娘は驚きのあまりしばらく声を出すことができないまま鬼を見返し、気持を落ち着かせるために数珠を爪繰りはじめました。

「それで良い」と鬼は娘に声を掛けると、立ち上がり、数珠を手にすると、さらりと良源の姿に戻り、「お前の作る数珠は素晴らしい」と微笑みその場を立ち去りました。

 現代の私たちは数珠を持つ時は、合掌して親指を起点として数珠を掛ける姿を思い浮かべますが、良源の時代は両手を挙げて数珠が円弧を描くように持つのが、肖像における原則です。

 さて、良源は元三大師と呼ばれますが、この名前は良源が永観3年(985)の1月3日に入寂したことによるものです。元三大師への信仰は、護符に描かれる鬼大師、そして角大師によるものです。

 今回紹介した鬼に変身した良源の姿を描いたものが鬼大師。姫君が逃げ出すほどの恐ろしいお姿です。右手には独鈷杵を持ちますが、数珠は持ちません。おそらく数珠を持てば良源の姿に戻るのでしょう。良源が姿を変えたもうひとつが角大師。角大師は人々を悩ませる災厄を払う護符として人気があります。鬼大師も角大師も良源が数珠を持ち呪を唱えることで変身したお姿なのでしょう。

(元三大師伝説に基づいた一部フィクションで構成した物語です)