数珠の歴史

数珠の歴史(36) 『餓鬼草紙(がきぞうし)』に見える数珠 その1

 数珠屋の娘は、近くの寺の門で定期的に開かれる市に数珠の店を出しており、その日も朝からたくさんのお客さんが数珠屋の娘が立つ場所にやってきました。隣では佛画を並べる絵師が立っていましたが「数珠のお客さんはほんまに多い」と感嘆するほどです。

 平安時代、数珠は人々にとって馴染みのある法具(仏教の道具)になっており、数珠屋の娘の店では様々な注文を受けていました。都から貴族の使いの者が立ち寄り、水精や菩提子などの特別な数珠の注文もしますが、大半の注文は新たな木玉の数珠、そして修理です。中には自分で拾ってきた木の実を差し出し数珠に仕立てて欲しいという人もいます。簡単な修理であれば数珠屋の娘は、その場で連れてきた仕立ての数珠の職人に修理をさせます。

 陽が高くなりはじめた頃、東国日光の僧が、供の小僧を連れて、修理の仕上がった数珠を引き取りに来ました。丁度一ヶ月前、娘の店に立ち寄り、玉の中を通る紐が切れかかった数珠の修理を託しましたが、その時にこの数珠の由来を娘に説明しています。

「この数珠は日光中禅寺を開かれた勝道上人様から引き継がれた数珠です。桓武帝の頃、勝道上人はこの数珠を信者から寄進されたと伝え聞いていますが、難波の四天王寺辺りの数珠屋が仕立てたもの、とも聞いています。それで修理のお願いに参りました」
(桓武帝といえば、都を南の京から北の京へと移した方。私の先祖が作った数珠かしら)
と数珠屋の娘は胸の内に聞きながら、数珠の修理を引き受けました。南の京とは奈良、北の京とは京都のことで、桓武帝とは桓武天皇(737〜806)のこと。794年(延暦13)に平城京から平安京への遷都を行った天皇です。

 勝道上人は奈良時代から平安時代初期の僧で、天平7年(735)、下野国(しもつけのくに・栃木県)に生まれ、下野薬師寺で具足戒を受けます。具足戒は僧侶として受けるインド由来の正式な二百五十戒のことで、奈良時代には大和奈良の東大寺、筑紫福岡の観世音寺、そして下野薬師寺に戒壇を授ける戒壇院が設けられていました。

 勝道上人は信仰を集めていた日光・男体山(2486メートル・二荒山・栃木県)の登頂挑み三度目で成功。この地を山岳修行の場として開きました。勝道上人は東国における山岳修行、すなわち東国における修験道の始祖として知られた方です。

 今に伝わる勝道上人の肖像(鎌倉時代・日光 輪王寺蔵)は左手に数珠を持ち、右手に独鈷杵を持つというお姿です。数珠には浄明珠が見え、弟子玉が連なります。数珠も独鈷杵もおそらく畿内からもたらされたものであったに違いありません。
 同時代の空海の肖像は右手に三鈷杵、左手に数珠を持ちますが、若き空海は四国で山林抖擻(さんりんとそう)の修行をし、室戸岬で虚空蔵求聞持法(こくうぞうじもんじほう)を修した際に明珠が口に飛び込むという体験をしています。
 勝道上人は空海に、日光二荒山を賛じる文章を依頼し、空海は「沙門勝道歴山水瑩玄珠碑幷序(しゃもん しょうどう さんすいをへて げんじゅをみがくひ じょをあわせたり」として著し、この文章は空海の『性霊集(しょうりょうしゅう)』に見ることできます。
 

 さて、数珠屋の娘が店を出した市の様子のことです。
 平安時代末期に描いたと伝わる『餓鬼草紙』(曹源寺本・京都国立博物館蔵)には、活き活きとした喧噪に包まれた寺の外に広がる様子が描かれており、数珠を持つ僧侶や聖(ひじり)、女性の姿を見ることができます。
 この『餓鬼草紙』の右側が寺の門の外側、ここでは仏画を売る人、仏の版画を売る人、むしろに座してリンを叩く尼僧、そして門にはたくさんの人が描かれています。そして左側には笠塔婆を拝む人達が描かれます。

 東国からの旅の老僧は数珠屋の娘に聞きました。
「おまえは、あの笠塔婆の回りにむらがる餓鬼どもが見えるか」
 数珠屋の娘は笠塔婆のあたりを見ますが、目に入るのは手を合わせる人、水桶から水を注ぐ男、数珠を持つ尼僧と女性。
「・・・いいえ、見えません」
(餓鬼が本当にそこに居るの?)

 旅の老僧は娘に勝道上人由来の数珠を渡し、「この数珠を両手で持ち、呪を称えてみよ」と言いました。

(続く)