数珠の歴史

数珠の歴史(34) 弟子玉を引き上げ念仏を数える恵心僧都源信

 インドから中国に仏教が伝わった時、その仏教が日本に伝わった時の最大の衝撃は地獄の存在です。
 大乗仏教の祖とされる2世紀頃に活躍した龍樹の主著である『大智度論』、4〜5世紀頃の学僧である世親の『倶舎論』には地獄の様子が描かれます。『倶舎論』は生まれ死んでまた生まれることを記しますが、生まれ変わり先が地獄のこともあります。仏教は、ある意味、この地獄に生まれ変わらないための方法を長く考えて来た教えで、その到達点のひとつが極楽への往生、念仏による極楽への往生です。

 この流れを引き継ぎ、地獄の様子を詳細に描き、極楽の様子も詳細に描き、極楽へ生まれ変わる方法として念仏を称えることを説いたのが源信(恵心僧都・えしんそうづ・942〜1017)の『往生要集』です。源信は法然や親鸞の浄土観に大きな影響を与え、日本の浄土教をはじめに確立した僧とされます。

「それで、木槵子(もくげんじ・むくろじ)の数珠を二十五連、お作りすればよいのですね」
 難波、四天王寺あたりの数珠屋の娘は、京からやってきた僧侶の同じ数珠を二十五連欲しいという注文に少し不思議な気持ちがしていました。
「毎月十五日の夜、念仏を称え、仲間が亡くなりそうになった時には往生を助けるための講で、二十五人が集まりました。日頃はそれぞれの数珠を持っているのですが。毎月この集まりにはお揃いの数珠を持とうということになりまして」と京からの注文主は説明しました。
「それと、念仏の数を取りますので、弟子玉の上げ下げが無理のない数珠をお願いします。」
「承知しました」と数珠屋の娘は得心し応えました。

 二十五連の数珠を持つことになるのは、二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)に結縁した人たちです。二十五三昧会とは986年(真和2)に、比叡山横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)に二十五人が集まり、毎月15日は夜通しの不断念仏をすることになりました。

 源信が『往生要集』を起稿したのは984年、著作を完成させたのは985年。二十五三昧会が結社されたのは986年ですから、二十五三昧会は『往生要集』に記された極楽への往生を実践するための集まりであったと言えます。

『往生要集』では数珠について次のように触れられています。

「数珠を使用する場合、浄土に生まれたいと願う時には無患子の数珠を使う、多くの功徳を得たいと思う時には菩提樹の実か水精、蓮の実などを使うこと」

「一週間以上の不断念仏の際には数珠をもたなくてもよい」

 菩提樹の実、水精、蓮の実と記すのは「校量珠数功徳経(こうりょうじゅずくどくきょう)」に拠るものです。「校量珠数功徳経」は「木槵子経」と並び、数珠の功徳を説く経典です。

 長期間の不断念仏に際しては数珠は要らない、源信は記しますが、『往生要集』では「日毎に一万遍の念仏」とも強調されており、二十五三昧会の結縁者も、数を称える念仏をしていたことは想像に難くありません。

 十五日の念仏は、晴れていれば満月の夜です。酉の刻(午後6時)から翌朝辰の刻(午前8時)まで念仏講を行います。まず十二箇軸之経文を読み、二千回余りの念仏を称え、回向を済ませた後に、全員それぞれの礼盤に戻り百八の念仏を称えます。月の高さをみながら、その後は法華講を行います。

 もし結縁者が臨終を迎える時には光明真言と土砂加持(どしゃかじ)を行うこと、結縁者が往生した後はその家族のことも思いやること、結縁者が病気になった時には看病することなどが講の規則として決められていました。光明真言と土砂加持は今でも真言宗の葬儀で引き継がれており、この時代、ご遺体の供養に欠かせないものになっていました。

 今に伝わる恵心僧都の肖像を見ると、弟子玉が二珠繰り上がっています。弟子玉を付ける理由は、回数を数えるためで、弟子玉を繰り上げることで何回「南無阿弥陀仏」と称えたかを知ることができます。源信の肖像においてわざわざ弟子玉二個を上に配置しているのは、何かの偶然ではなく、源信が念仏の回数を大切にしてことの現れです。

 四天王寺あたりの数珠屋の娘は、この二十五三昧講から、やがて女性用の数珠の注文を受けるようになります。比丘尼の数珠です。数珠屋の娘は女性の手になじむ尺寸の数珠を作りましたが、比丘尼の中には「色糸を」という要望を出す者もいました。同じ数珠ではなく、自分がより仏に近づける気持ちを生み出す数珠、自分だけの数珠を比丘尼は望んだのです。他の比丘尼が洒落た数珠を持つ姿を見ると、自分も持ちたくなる。この気持ちは今も昔も変わりません。

恵心僧都源信の資料に基づいた文章ですが、一部フィクションとなっております