数珠の歴史

数珠の歴史(35) 回峰行の祖 相応和尚の数珠

「この桂の木から数珠をお作りすればよろしいのですね」と四天王寺あたりの数珠屋の娘は使いの者に話しながら、不動明王の造像の後に残されたという桂の木を見つめました。

 相応和尚(そうおうおしょう)が、比叡山の北の葛川(かつらがわ)の滝で苦修練行をしている時、火炎を背負った生身の不動明王が現前し、喜びのあまり和尚が不動明王に抱きつくと、不動明王はたちまちのうちに桂の老木となったというのです。相応和尚はこの桂の老木を以て自ら不動明王三体を彫刻し、坐像は延暦寺東塔の無動寺に、立像を同じく延暦寺葛川明王院、蓮華台座の不動明王を琵琶湖東岸蒲生の地に建立した伊崎寺に安置しました。使い者が大切に持参してきた桂の木は、不動明王造像の際に残った木です。

 数珠屋の娘は桂の木の塊に手をそえながら「滝の瀑が炎になったのかしら」と思いを巡らしていると、「お願いする数珠は、神仏の呪が宿る数珠にしてください」と使いの者から念を押されました。

「どのようなことでしょうか」

「相応和尚様は、仏だけでなく、日枝大社(ひよしたいしゃ)に参籠され、理趣般若経を読誦されます。また、日枝大社に宝塔を作られ、そこに法華経を納められています。相応和尚様は顕密神を奉じられます」

「天台の法華経の教え、密教の教え、神道の教え、ということですね」

「よくおわかりですね」

「数珠のこと、確かに承りました。相応和尚様と言えば、ご病気になられた宮中の方を何度も験により平癒されたと聞いております。厳しい行にお供できる、しっかりとした数珠を作らせて頂きます」

と娘は使いの者に伝えました。

 相応和尚は今に伝わる比叡山千日回峰行の祖。平安時代の初め(813〜918)に比叡山で出家受戒、『法華経』の常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)に倣い、毎日の勤行と修行の合間に、山中で花を摘み、根本中堂の本尊である薬師如来に花を供えること六年。六年の間一日も欠けることなく供え続けるその姿を見たのが第三代天台座主となった円仁。円仁は836年に入唐、847年帰朝しているので、相応和尚の供花の行を見たのは入唐前、ということになります。

 相応は円仁によって見いだされ、25歳の時に円頓菩薩戒を受戒。この後に十二年比叡山に籠もって修行する籠山行を始め、円仁より不動明王法、護摩法も受けます。籠山行の間、本尊薬師如来が現れ、「わが山は三部諸尊の峰なり、この峰を巡礼し、山王の神祠(ほこら)に詣で、毎日遊行の苦行をせよ。これが常不軽菩薩の行なり」と相応和尚に告げられます。この仏告が現代に続く比叡山の千日回峰行となります。

 859年、三年穀食を絶ち、蕨の類いを食しながら行を積む誓願を立て、まずは比良山の安曇川(あどがわ)で、後に葛川(かつらがわ)で修行を積みます。その葛川での修行の時に、火炎を背負う生身の不動明王を感得し、抱きついたところ、不動明王は桂の老木になったのです。

 今に伝わる相応和尚の肖像は鎌倉時代に描かれたもので、礼盤の上に坐し、左手から右手かけて数珠を持ちます。この数珠は一連を二輪にしたものとして描かれますが、この時代の肖像としては珍しい数珠の持ち方です。この数珠の持ち方は、念仏を称えながら数を取る持ち方ではなく、行者としての数珠の持ち方、ということになるでしょうか。

※相応和尚の資料に基づいた文章ですが、一部フィクションとなっております