数珠の歴史

数珠の歴史(29) 六代御前 母の思い出を繋ぐ黒檀の数珠

 僧形の六代御前は、湘南逗子の海岸そばで、黒檀の数珠を爪繰り念仏を称えながら処刑されました。斬られる時、母が自分の髪の毛を優しく撫でながら「この数珠を持って極楽へ参るように」に言われたことをまるで昨日のことのように思い出したかもしれません。

 平家が壇ノ浦(下関と門司間の関門海峡)で源氏との戦に敗れ去ったのが1185年(元暦2)。平家と源氏との戦という、日本における最初の大きな内戦となった治承寿永の乱は、この壇ノ浦の戦いで終わりを告げましたが、暫くは不穏な時代が続きます。特に鎌倉幕府と朝廷の関係は不安定で、源頼朝(1147〜1199)は妻である政子の父である北条時政を京都に派遣し、京都での平家残党狩りなどを行います。

 平家残党に対しての時政の姿勢は厳しいものでした。「幼きをば水に入れ、土に埋め、少し大人しき子であれば押し殺し、刺し殺す」と平家物語には記されています。惨いのが当たり前の時代であり、頼朝自身も幼い頃、父源義朝が平家との戦に敗れた後に、処刑目前まで追い込まれますが、かろうじて許され、伊豆への流罪となり、命を長らえ、その後に挙兵するという人生を歩んでいます。

 京都守護となった北条時政の平家残党捜しの中で見つけられたのが、平清盛の曾孫にあたる六代御前こと平高清(1173〜?)です。六代御前の六代とは平正盛(?〜1121)から数えて六代目という意味です。平氏はこの正盛と子である忠盛(1096〜1153)の時代に勢力を伸ばし、忠盛の子である平清盛(1118〜1181)の時に隆盛を極めます。この清盛の子に平重盛がおり、重盛の子が美貌で知られた平維盛(1159〜1184)、維盛の子供が六代御前・平高清です。

 父、維盛は美貌ではありましたが、戦上手ではなく、源氏との戦いで敗走を重ね、1183年(寿永2)7月の平家の都落ちの際に、妻と子の六代御前を都に残し、三年後、母と共に都に潜伏していた六代御前は北条時政により見つけられます。

 源氏方の北条時政に我が子六代御前を連れ去れた母の悲しみは絶望的なものでしたが、十二歳の六代御前の命は文覚の働きかけにより一旦救われます。文覚が六代御前に会った時、六代御前の手首には黒檀の数珠が掛けられていました。

 文覚は源頼朝から信頼を受けていた政僧で、頼朝の父である源義朝のドクロを持ち伊豆に流されていた頼朝に蹶起を促したことで知られています。文覚は頼朝に六代御前の助命を願い、「文覚の願いであれば、私が生きている間は叶うだろう」という頼朝の言葉により、寸前のところで処刑を免れます。

 六代御前は1189年(文治5)、十六歳の時に出家します。平家物語では「美しげなる髪を肩にはさみおろし、柿の衣、袴に笈」という姿で、まずは高野山い向かったと記されています。その後には、文覚の住する京都高雄の神護寺で修行を重ね三位禅師と称されるようになりますが、鎌倉から謀反の疑いの目を常に向けられていました。

源頼朝が亡くなったのは1192年(建久10)。文覚は謀反の疑いから佐渡、そして隠岐へと流されます。

 文覚という後ろ盾を失った六代御前は「頭は剃っても、心は剃ることができない」とされ、現在の神奈川県逗子の海辺へと流れる田越川のほとりで処刑されます。遠くに見える富士山、潮騒の音、かすかな海の香り、その手には母から貰った黒檀の数珠が握られていたはずです。陽を受ける白刃が振り下ろされた時、黒檀の数珠はまるで命を絶たれたように紐が切れ、黒檀の玉は弾き飛びました。