数珠の歴史

数珠の歴史(32) 行基(ぎょうぎ)の数珠

 近鉄奈良駅前に行基広場と呼ばれる空間があります。そこには数珠を右手に持つ行基菩薩像が立ち、人々の待ち合わせ場所になっています。行基がその名を知られるのは奈良東大寺建立にあたり聖武天皇の帰依を受け勧進を行ったことによるものですが、風景としての行基は随分と遠く感じられます。

 その日、行基は紫香楽宮(しがらきのみや・現在の信楽町)で仏法とこれから造立される大仏への結縁を説いていました。紫香楽宮は聖武天皇の離宮です。紫香楽宮で聖武天皇は大仏建立の詔を出しており(743年)、行基は聖武天皇から請われ、大仏建立のための勧進説法をこの地で行っていたのです。

 取り囲む人はざっと千人。行基は太陽に向かい説法していたので、右手に持つ水精の数珠はきらきらと輝いていました。人々はもっぱら行基の言葉に酔いしれていましたが、行基が持つ数珠をじっと見つめる一人の娘がいました。

「あの水精の玉の連なりは一体何だろう」

 娘は難波・四天王寺そばで水精や瑪瑙を加工する家に生まれ、勾玉なども作っていましたが、その日は工房の男性に付き添われ水精の玉を紫香楽宮の官所に納めるためにやって来ていたのです。

 行基の説法が終わり、人垣が崩れ始めると、娘は行基の元に駆け寄り聞きました。

「大徳様、右手にお持ちの水精の連なりは何でございますか」

「よく聞いた娘よ。数珠と呼ばれる仏教の法具じゃ」

「じゅず?」

「仏法に寄り添う法具ことだ」

 この時代、数珠は広く知られていません。玉加工の家に生まれた娘にとって数珠は初めて見るもので、一体何に使われるのかまったく知りませんでした。行基から「じゅず」と言われても何のことかは分かりませんでしたが、仏教の法具であること、なによりも美しく、手に持つものであることに魅了されました。娘がこれまで見てきた玉は、首飾りや、寺院の飾りに使われるものだけで、手に持つということに驚きを覚え、「私も作りたい」と強く思いました。

 行基は7世紀の後半に生まれ、奈良東大寺の大仏建立落慶をまたずに遷化しましたが(668〜749)、その出自については明確に分かりません。韓半島・百済国王の血筋を引く渡来人で、河内国生まれであると言われます。

東大寺は平安時代末期に平重衡により焼き討ちにされ、その後鎌倉幕府の帰依も受け重源の勧進により再建されますが、再建にあたっては行基の勧進が強く意識され、この時代から行基信仰が始まります。こうした中で、行基の遺骨を納めた舎利容器が発見されるのですが、この舎利容器に行基の行跡が刻まれていたのです。

 正史である『続日本紀』における行基は、もともと妖僧ともいえる存在でした。たくさんの弟子を率い、街々で「みだりに罪福を説き」「偽りて聖道を説き」「百姓を妖惑し」と記されています。いかがわしい集団を率いていたのが行基、ということになります。朝廷は行基集団に対して、村里においてみだりに人を集めないことを布告します。

以上は717年(養老元年)の記述ですが、749年(天平勝宝元年)には行基菩薩として登場します(行基遷化後の記述です)。行基が説法を始めると、村里の人々がからっぽになるほど人々が集まるほどの人気で、朝廷はこの行基の力を借りて、東大寺大仏の建立という一大プロジェクトを完成させてゆくのです。

 行基の姿を今につたえる一体は絵像、一体は木彫像です。

 絵像(奈良・唐招提寺像)は鎌倉時代に南都系の絵師・備中法橋幸盛によって描かれたもので、右手に数珠、左手に如意を持ちます。面相が剥落していますが、背後には山林が描かれ、修行者としての行基が描かれています。

 木彫像(奈良・唐招提寺像)は鎌倉時代の作品と推定されており、右手の数珠は欠落していますが、左手には如意が持されています。

 行基の木彫像が持っていたであろう数珠は、四天王寺あたりの数珠屋の娘が作り上げたものかもしれません。行基像を手がけた慶派の仏師は、行基が右手に持する数珠を、快慶がひいきにしていたこの数珠屋に依頼し、数珠屋の娘は、何世代も昔となる行基のことを「行基菩薩」として教えられ、遠い記憶の中にある数珠の思いでをたぐりよせながら、数珠を編み上げました。