数珠の歴史

数珠の歴史(12) 姫君と公達たちの数珠④ 数珠をおしもむ

私達は数珠の持ち方については、宗派毎の持ち方を含めて、一定の持ち方を皆さんに説明しますが、数珠を持つことの意味は「数珠を繰る(くる)」ことにもあります。また「おしもむ」こともできるものです。数珠を持つこと、数珠の玉を一つひとつ手の中で繰ること、両の掌(たなごころ・手の裏)の中で数珠をおしもむことで、ドキドキする緊張や不安が随分と和らぐことがあります。

『枕草子』には数珠を「おしもむ」という一節があります。

(原文)
かすかに数珠おしもみなどしてききゐたるを、講師もはえばえしくおぼゆるなるべし、いかでかたりつたふばかりと説き出でたなり。

(訳文)
かすかに数珠を押しもみなどしてお聞きになっているので、講師も光栄に思ったのであろう、いかに評判よく語り伝えようかとばかり、説き始めたのであった。

「説教の講師は」という中の一文なのですが、この当時の仏法を聴くことの光景も浮かんできます。

 説教の講師とは仏法を説く僧侶のことなのですが、清少納言は「仏法の講師はハンサムで格好よくなくちゃ」と言い切ります。そして不細工な講師だと仏法を聴く私達の方に仏罰が下るのでは、と記した直後に「こんなことを言うのは良くない」と少し反省。これはほとんど、アーティストのコンサートに行く感覚です。
 清少納言にとって仏法を聞く場にとって必要なのは、ハンサムで格好いい講師だけではなく、従者を連れたファッションに優れた公達(貴族)も必要不可欠なものでした。セミの羽のように軽々とした直衣(のうし)や指貫(さしぬき)、そして絹の単衣をまとった公達が説教の場にいて、後から入場してきた彼らに場所が空けられ、説教の高座(講師の居る場所)に近いところで「数珠を押し揉む」公達に触発された講師が、気張って仏法を説くことのが素敵だと言うのです。

 押し揉むとは、掌で数珠を包み、文字通り押し揉むことを言います。掌に数珠の玉があたり気持ちよく、きっと微かに音などもして、法話を聴きながらそのように数珠を用いることが、この当時はされていたに違いありません。

 数珠は持つものですが、掌の中で押しもむことが、平安時代から行われていました。良い数珠を持って、心を落ち着かせたい時などに、掌に数珠を押し揉んだり、数珠を手繰り、その感触を味わってください。

「この間の法華八講の講師様本当に素敵でしたわ」
「後から入ってこられた狩衣の公達!」
「直衣の方も凄く素敵だったわね!!」
「お数珠をずっと押しもんでらっしゃったでしょ」
「あのお数珠、下さらないかしら」
「ご一緒にお数珠を持ってお話したい」
「ねんじゅる ねんじゅる(念珠る)」