数珠の歴史

数珠の歴史(15) 姫君と公達たちの数珠⑦ 数珠が法具である意味

『枕草子』を記した清少納言の時代、仏教には現代とかなり異なる側面があります。それは病気直しが日常的に仏教に求められたからです。

《枕草子『すさまじきもの』原文》
験者の、物の怪調ずとて、いみじうしたり顔に、独鈷や数珠など持たせ、蝉の声しぼり出だして誦みゐたれど、いささかさりげもなく、護法もつかねば、集りゐ念じたるに・・・・・

《訳文》
験者(僧侶)が、物の怪を調伏するといって、得意顔で物の怪を乗り移させる女官に独鈷杵や数珠などを持たせて、苦しそで蝉のような声を絞り出しながらお経を読んで座っているのですが、少しも物の怪が女官に憑く様子もなく、護法も乗り移らないので、そこの場に居た人が集まり座って念じていたのですが・・・・

 平安時代、仏教に最も求められたことのひとつは、調伏や加持による病直しです。加持は壇を用いた修法で、加持は真言などを唱えるものでした。清少納言も、調伏や加持の場に度々居合わせたに違いありません。

 この「すさまじき」の中で目をとめたいのは、病になった者に験者(僧侶)が加持を直接するのではなく、憑きやすい女官に、病を持った者の物の怪をいったん移すことにあります。憑きやすい女官に移った物の怪の正体を探り、その正体が明らかにされることで病気が治る、とされました。ちなみに験者は園城寺(三井寺・滋賀)の僧侶であるとされ、園城寺は今でも天台宗系修験(山伏)の本山となっています。

 現代に生きる我々が「物の怪」と聞くと、「もののけ姫」に登場するような怪物的なものを想像するかもしれませんが、ここでの物の怪の多くは死霊です。

 文中にあるように憑きやすい女官に持たせるのが、密教法具と数珠であることは大変興味深いものがあります。ここでの数珠の役割は、密教法具同様、異界との繋がりを生む役割を担います。

 数珠は、仏の名前を称えた回数をカウントするもの、とこれまで説明されてきました。また、数珠の解説の中で必ず引用される「木槵子経(もくけんじきょう)」でも数珠のカウントのことが説かれます。しかし、この「すさまじきもの」での数珠の役割は、憑きやすくさせる役割を担うものです。

『枕草子』には「独鈷杵や数珠を持たせて」とありますが、病気直しのために独鈷杵や数珠を持つことは、密教における「阿尾奢法(あびしゃほう)」に拠るもので『枕草子』はまさに「阿尾奢法」による病気直しの場面を描いたものです。真言宗の『作法集』「験者作法」には以下のようにあります。

念珠と金剛杵を持ち、本尊の真言を唱えよ。

「阿尾奢」とは憑入(ひょうにゅう)させるという意味ですが、ここにおいて念珠は法具と呼ばれる金剛杵と同格の扱いを受けていることになります。

 ここでは憑きやすい女官に「護法」を憑入させ、病気の原因を護法によって明らかにさせようとしていることになります。護法とは仏法守護の役割を持ち、僧侶を助けて験力を明らかにする存在です。一般的には護法童子でイメージされ、不動明王の脇にいる制多迦童子(せいたかどうじ)でもイメージされるのですが、『枕草子』ではその験者によって護法が顕れないというのです。

引き続いて『枕草子』では全く験力を顕さない僧侶にうんざりとする様が描かれています。

《枕草子『すさまじきもの』原文》
男も女もあやしと思ふに、時のかはるまで誦み困じて、「さらにつかず。立ちね。」とて、数珠取り返して、「あな、いと験なしや。」とうち言ひて、額より上ざまにさくり上げ、あくびおのれよりうちして、寄り臥しぬる。 いみじうねぶたしと思ふに、いとしもおぼえぬ人の、おし起こして、せめてもの言ふこそ、いみじうすさまじけれ。

《訳文》
男性も女性も変だなと思っていると、僧侶は時が変わるまで読経をしたために疲れてしまって、 「まったく憑かないですね。立ちなさい。」といって、女房から数珠を取り返して、 「なんとも全く効き目がないこと」と言って、額から上の方へ(髪を)かき上げ、あくびを自分からして、ものに寄りかかって寝てしまったことは興ざめすぎて本当にうんざりと、いやになりました。

 護法をそこに出現させることのできなかった験者は言い訳をして、憑きものが入るはずであった女官から数珠を取り戻します。余程大切な数珠だったのでしょう。そして髪をかき上げ、ということは剃髪の姿ではなく、山伏のような姿であったことが想像できます、あくびをして、そのまま寝てしまったというのですが、なんて自分勝手な験者なのでしょうか。清少納言でなくともうんざりします。

 独鈷杵を含む金剛杵と数珠の組み合わせで思い出すのは、空海の肖像です。空海は右手に五鈷杵を持ち左手に数珠を持ちます。この五鈷杵と数珠という組み合わせには、おそらく、諸仏をそこに顕現させる意味が秘められているに違いありません。

 山田念珠堂では数珠を法具と呼び習わしてきましたが、仏具と呼ばず法具と呼ぶ意味はまさにここにあります。数珠はそれを持し、仏の名前を称える者を、仏の世界へと繋ぐ力があるのです。また、数珠が「守珠(じゅず)」である理由は、数珠に仏が宿り、持つ人を護る力が数珠に具わるからです。

「おととい夜、数珠を枕もとに置いて寝たの」
「あの蓮の実の数珠?」
「そうなの。そうしたら夢で護法童子様が現れて」
「本当?」
「天空で輪宝を廻しながら、必ず逢えるっておしゃるの」
「すごいわ」
「そうしたら、昨晩かの公が来て下さったの」
「私も数珠を枕もとに置いて寝ようかしら」
「夢の中でも彼の公と」
「ねんじゅる、ねんじゅる(念珠る)」

※今回の記事は『もののけの日本史』(中公新書 2020年・小山聡子 二松学舎大学教授)に見える研究成果を参考にしております。