数珠の歴史

数珠の歴史(17) 藤原倫子と藤原義孝の紫檀数珠

 清少納言(966頃〜1025頃)、紫式部(970頃〜1019頃)が生きた貴族社会が頂点を迎えるのが、藤原道長(966〜1028)の時代です。藤原道長の四人の娘はそれぞれ天皇の妻である皇后になっていますが、道長の長女である藤原彰子(988〜1074)に仕えたのが紫式部です。彰子の周りには紫式部の他に、『和泉式部日記』を著した歌人・和泉式部(978頃〜没年不明)、『栄花物語』を著した赤染衛門(956頃〜1041頃)がおり、文芸サロンを形成していたといわれています。

 藤原道長の兄である道隆の長女である定子(977〜1001)に仕えたのが清少納言でしたが、定子と彰子はいずれも一条天皇(980〜10の皇后となっています。

 清少納言、紫式部、和泉式部、赤染衛門といずれも女性です。女性の文筆家がこれほど登場した背景には「女文字」と呼ばれる「かな文字」の登場に加えて、一条天皇も藤原家も文芸好きであったことが挙げられ、藤原道長は『源氏物語』の評判を聞き及んで紫式部を宮中に招いたとされています。

 藤原道長を中心にして摂関時代の事跡を記した記録として知られるのが『栄花物語』です。『栄花物語』は女性である赤染衛門が本編を、続編を出羽弁(でわのべん)、周防内侍(すおうのないし)という女性が仮名文字で記した歴史物語と評価されています。『栄花物語』に対して摂関時代を正史として評価されるのが『大鏡』です。

 この時代は、平安時代の仏教が花開き、藤原氏が摂政関白という政治の中枢を司る中での仏教文化のことが『大鏡』『栄花物語』には記されており、数珠の記事も見ることができます。

 今回からは数回にわたり『栄花物語』と『大鏡』に見える数珠を紹介してゆきます。

御前にさぶらふ人々も笑ましう見たてまつるに、紫檀の御数珠のささやかなるを、わざとならぬ御念誦におほどけなげにて、御脇息に押しかかりておわしますほど(「栄花物語」)

 藤原道長の妻である倫子(964〜1053)が可愛らしい紫檀の数珠をつまぐりながら仏の名前を称え、脇息にもたれかかりくつろいでいる様子を記した『栄花物語』の一節です。倫子はこの時45歳でしたが『栄花物語』では「まるで二十歳」とし、周りがうっとりするほどの美しさでした。

常の御ことなれば、法華経、御口につぶやきて、紫檀の数珠の、水精の装束したる、ひき隠して持ちたまひける御用意などの、優にこそおはしましけれ。(「大鏡」)

この一節は「大鏡」のもので、藤原義孝(954〜974)の紫檀の数珠を紹介するものです。藤原義孝は美しい容姿を持つことで知られた貴族で、仏への篤い信仰を持っていました。紫檀の数珠の、水精(水晶)の装束したる、ということは、紫檀が主玉(おもだま)で、四天・親玉・弟子玉・露などが水晶の数珠であったかもしれません。

「栄花物語」では白の御衣(おんぞ)を重ね、そこに香染の狩衣(かりぎぬ)、薄紫の指貫(さしぬき)という派手ではないあか抜けた姿に、紫檀と水晶の数珠を持つ藤原義孝が描かれます。紫檀水晶の数珠を持つことで、さらに際だった姿になっていることが分かります。

 

 紫檀は正倉院御物にも見ることができる東南アジア産の銘木ですが、この当時、紫檀はどのようにして日本に伝わってきたのでしょうか。

 歴史上で言えば、遣唐使船で伝わってきたとされるのが正しい解釈となります。遣唐使船は日本が正式な大使を唐に遣わすもので、630年から838年まで19回にわたって実施されます。唐は618年から907年まで続いた王朝です。日本の仏教は隋そして唐の影響を強く受けてきましたが、838年出発翌年帰朝の第19回目の遣唐使の頃はすでに唐王朝は衰退の中にあり、その後に遣唐使は中止されます。

 これまでの歴史解釈では、遣唐使が中断されたことにより、日本ならではの国風文化が生まれ、その象徴として平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像が挙げられてきました。平等院鳳凰堂は藤原道長の息子である藤原頼道(992〜1074)によって発願建立されたもので、阿弥陀如坐像は仏師定朝によるものです。

 遣唐使は中止されましたが、実は唐、新羅(〜935)、日本間の私貿易は常に行われていました。19回目の遣唐使船団に加わり入唐した円仁(794〜864・第三代天台座主)の帰朝は、朝鮮半島沿いに新羅船に頼るものでした。このことは円仁の『入唐求法巡礼行記』に詳しく記されています。

 空海(774〜835)は第18回の遣唐使(804)に加わり入唐しますが、唐土に入るなり唐語の能力を発揮します。空海は二十歳代に足跡を消し、その間の行動は謎の時期がありますが、私貿易船によりすでに唐土を踏み、そこでの暮らしを体験していたのかもしれません。

 藤原倫子、そして藤原義孝が持していた紫檀数珠は、日本と大陸の私貿易によりもたられてきたものかもしれません。唐朝に続く五代十国(907〜960)、藤原道長の時代には宋(960〜1279)となりますが、日本と大陸間の貿易は盛んなもので、倫子と藤原義孝の紫檀はこの貿易によりもたらされたものであったと思われます。宋との貿易は平清盛(1118〜1181)の時代にさらに盛んになります。「栄花物語」「大鏡」には紫檀に関しての多数の記述が見え、当時の貴族達にとってエキゾチックでステータスのある素材であったに違いありません。