数珠の歴史

数珠の歴史(20) 数珠の緒

数珠を作る上で大切なのは、もちろんまず数珠の玉ですが、それと共に数珠の玉と玉を貫く紐も大切な要素となります。

 この連載では一度、数珠の糸について触れたことがあります。

水精の御念珠のの朽ちにければ、御前に落ち散りたるを拾い集めて、緒をすぐすげて御手にかけたてまつりてけり。

 空海が入定(にゅうじょう)した後、廟窟に入った観賢(854〜925)が空海の姿に出会う場面で、空海が手にした水精(水精)の数珠の緒(糸)が切れて、水精もばらけていたので、これを直して空海の手にかけ直した、という『今昔物語』の中にある話です。この場面は連載の「数珠の歴史(6) 空海と数珠(3)入定した空海が持した数珠」で詳しく説明していますので、是非ご覧になってください。

 この場面では数珠の糸のことは「(お)」と表現されています。というのは糸を撚った紐のことで、この時代の古典の中には数珠の緒について記すものがいくつかあります。

 水精の数珠の切れたらんやうなる涙をはらはらとこぼして曰(いわ)く

『宇治拾遺物語』(1212〜1221頃に成立) の中の一節です。はらはと流れる涙を、数珠の(紐)が切れた水精の数珠に喩えるものです。ここでも数珠のは数珠を通す紐のことを意味しています。

 唐の薄物の朽葉村濃(くちばむらご)なる一襲(ひとかさね)に、いとけうなる緋(あけ)の糸五両ばかりづつ、女郎花(おみなえし)につけたまへり、「数珠の緒と思(おぼ)しめしたるなるべし」

『落窪物語』の一節です。『落窪物語』は十世紀末に成立した文学で、『源氏物語』や『枕草子』の先行するものです。落窪とはヒロインの落窪の君が、当初虐げられ、床の窪んだ居室に住んでいたことにちなむ名前です。

 紹介した一節は落窪の君の婿である大納言が主催する「法華八講」の中のものです。法華八講とは「法華経」八巻、つまり「法華経」全巻を講説する法会で、高貴な方々がずらりと集まりました。この時、落窪の君は虐げられた境遇から脱して、時の権力者である大納言の妻になっており、その元に届けられた贈り物が「朽葉村濃の一襲」と「数珠のとなる緋の色」でした。「緋(あけ)の糸五両ばかり」の緋とは基本的には朱・赤色のことですが、黄色がかった赤と説明されることもあります。
 
 この場面が興味ぶかいのは、わざわざ「数珠の緒」として贈られていることです。ここで言う数珠のとは、もちろん数珠の玉を通す紐のことだと思われますが、緋の色の糸が数珠の緒として選ばれていることは興味深いことです。

 空海が所用したと伝えられる東寺(京都の教王護国寺)蔵の「水精念珠」の現在のの色は朽葉色(くちばいろ)で、親玉から下がる房部分は緋色です。同じく空海が唐から持ち帰ったとされる「菩提子念珠」は通し糸そのものが緋の色です。これらの数珠の糸が、平安時代当初のままかどうかは分かりませんせんが、修理をしたとしても、同様の色の糸が使われたと思われます。
 つまり、平安時代において数珠の玉を貫く糸は色染めされた紐であり、緋色は数珠の中通し糸として代表的な色であったと思われます。現在でも真言宗の数珠では赤い色を使うことが多く、赤い糸は「龍の血」と喩えられることもあるようです。

 今では当たり前の数珠の房ですが、数珠の房がいつ頃から付きはじめたのかは、よく分かりません。空海の肖像が持つ数珠では、房はなく、金具付きのような露(つゆ)が緒留めとなり房代わりになっています。鎌倉時代以降の高僧の肖像、法然や親鸞の肖像が持つ数珠でも、空海の肖像と同様の感じです。

 落窪の君に送られた緋色の糸は、どのような数珠に付けられたのでしょうか。水精の数珠であれば、水精の玉の中を貫く緋色の糸として見えたはずです。希(まれ)なる緋色の糸、数珠の先に緋色の糸が房として伸びていたとしたら、とても素敵です。