数珠の歴史

数珠の歴史(27) 北条政子の数珠と四天王寺

 源頼朝の御台所(みだいどころ・正妻)であった北条政子。この時代の史書である『吾妻鑑(あづまかがみ)』における数珠の記述は、この連載の第25回で紹介した頼朝の数珠のみです。北条政子が数珠を持っていたという記述はありませんが、後世造られた政子の肖像は数珠を必ず持ちます。それは、頼朝の死の後、政子が出家し、その姿が「尼御前」として描かれるからで、出家姿の政子は数珠を持ちます。

 北条政子は悲しみの人でした。長女の大姫は20歳(建久8年・1197)で早世し、長男の頼家は二代将軍となるものの失脚した後に21歳で北条氏により殺害されます(元久元年・1204)。次女である乙姫は13歳で亡くなり(正治元・1199)、次男実朝は三代将軍となりますが兄である頼家の息子である公暁により殺害されます(建保7・1219)。子供を亡くす喪失感、そして悲しみは、それを体験した人にしか分かりません。それは自身が死ぬまで背負う悲しみの深淵です。

 乙姫が亡くなった時には「尼御臺所 御歎息(あまみだいどころ ごたんそく)」と政子の嘆きが『吾妻鑑』には短く記されています。
 実朝が殺害された時(建保7・1219)に『承久記』の異本では「子供を全て失い、この世の終わり」と嘆いたとあるそうですが、『吾妻鏡』では「実朝を暗殺した公暁とその一味を捕らえるように」とたちまち命令しています(「今夜中に阿闍梨の群黨を糺彈可し之旨、二位家自り仰せ下被る。」)実の息子である実朝が殺害にされた時、母である政子は数珠を握りしめ悲しみを心の奥に封じ込め、鎌倉殿亡き後の幕府を支える者としての気迫を見せます。

  

 これよりだいぶ以前のことになりますが、政子は建久6年(1195)に奈良・東大寺の大仏再建の開眼式のために、頼朝と長男頼家、長女大姫と共に京都に向かっています。東大寺の大仏は治承4年(1180)、平重衡の南都焼き討ちの中で焼失した後、勧進僧である重源などの尽力により再建立されたものです。この開眼供養にあたり政子は数珠を持していたに違いありません。

 頼朝と政子はこの開眼供養の後に、難波の四天王寺へとお詣りに行き、頼朝は聖徳太子をお祀りする大師堂に宝剣を奉納しています。

 頼朝が亡くなったのは建久十年(1199)のこと。この直後に政子は出家し、鎌倉殿を引き継ぐものとして威厳を発揮します。

 正治2年(1200)7月、政子は京都で十六羅漢図を製作させ、鎌倉の寿福寺に納めます。この時の寿福寺住持は栄西(えいさい/ようさい)。この年の2月に政子は栄西に寿福寺を寄進、開山として迎えています。栄西は日本における禅宗の開祖として知られている時代を代表する高僧ですが、この時には天台密教僧としての修法を行うことを主にしていました。

 政子はもしかすると、十六羅漢図像の製作にあたり、「四天王寺あたりの数珠の匠に数珠をお願いしようかしら」と考えたかもしれません。四天王寺は夫頼朝と長女・長男と旅をした思いでの地。大仏再建の落慶法要にあたっての京都訪問は、長女大姫に公家を迎い入れ、入内(じゅだい)させる交渉の旅でもありました。都での公家達との付き合いは難儀なものでした。一方、落慶法要の後、家族と訪れた四天王寺で政子はこころゆくまで、家族と一族の幸せを願うことができました。

 十六羅漢図像の開眼において政子が手にした数珠は難波・四天王寺あたりの数珠の職人が仕事をした数珠であったと思いを巡らせたいと思います。それは女性としての政子の思いを込めるための大切な数珠となりました。

 政子は自分の死期を悟った時、自らの死後を供養する「逆修(ぎゃくしゅ)」の法要を執り行っています。現代の仏教は残された者が亡くなった者を供養する追善供養が主流ですが、政子の時代、自分の亡き後を子孫が追善してくれるという保証はありません。逆修は死後の供養を、生前に自ら行うものです。
 この逆修にあたって、政子は幸せだった四天王寺参拝を思い出す数珠を持ち、法要に臨んだのではないでしょうか。その表情はとても柔らかなものであったに違いありません。