数珠の歴史

数珠の歴史(31) 奈良・東大寺 僧形八幡神坐像の数珠を想う

 仏師快慶は播磨国の浄土寺から南都奈良に向かう途中、摂州四天王寺あたりの数珠屋に寄ることにしていました。あの数珠屋の水精の磨きは見事なもの」と快慶のつぶやきを聞いた弟子の一人が「今度の僧形八幡像の数珠も楽しみでございますね」と快慶に語りかけました。 
 この時代、仏像の眼に水晶を嵌めこんだ玉眼が登場しています。これまで仏像の眼は、彫刻された眼に墨を入れることに留まっていましたが、水晶を嵌め込む玉眼の登場により仏像の表情はより生命を帯びるようになっていました。

 数珠屋は、播磨から奈良に抜ける要衝である玉造にも近く、快慶は南都奈良と播磨国浄土寺の往来の途中に、この数珠屋に立ち寄ることがしばしばありました。やや話の大げさな数珠屋でしたが、腕は確かなもの。以前、この数珠屋に玉眼用の水晶の制作を依頼したことがあり、その透明感のある出来上がりに惚れ込んでいました。

「今回の僧形八幡菩薩神は彫刻の眼で瞳は黒漆で光らせる、数珠は弘法大師空海の尊像が持つものと同様にする」というのが造像の快慶の意図です。

 平重衡による南都・東大寺の焼き討ちは1181年(治承4)。東大寺は全てを消失し、当初の建立の際に勧請された八幡菩薩像も消失しました。勧請された、というのは、奈良時代の東大寺大仏造立に際して、豊前・宇佐八幡宮(現在の大分県)から東大寺に八幡神が招かれ、その神威をもって大仏完成を目指したことに由来があるものです。

 私たちは仏と神を別のものとして考えますが、この時代、神と仏はまさに表裏一体。平重衡によって焼き討ちされた東大寺の中の八幡神に居所は、東大寺鎮守と呼ばれ、そこにご神体としての八幡神が祀られていたのですが、重衡の焼き討ちにより消失したのです。

 消失した東大寺の復興を任されたのは重源(クリック)。重源は八幡像を造るにあたり、快慶に任せることにしました。重源は大仏建立勧進のための別所(拠点)を七カ所設けていましたが、そのうち播磨別所はすなわち浄土寺、この浄土寺の阿弥陀三尊像を快慶はすでに完成させていました。浄土寺は再建される東大寺南大門と同様の南宋様式の建築で、阿弥陀三尊の様式も慶派の仏師としてはやや異質の南宋様式を伝えるものに、快慶は仕上げていたのです。

 快慶は神護寺に居る重源から僧形八幡像の製作を依頼されたことを思い出します。

「で、快慶、八幡菩薩像は、勝光明院宝蔵の八幡菩薩像を真似るように」と重源は、数珠を片手に爪繰りにながら快慶に告げました。
「つまり、僧形で、ということですね」と快慶はうなずいた。

 勝光明院宝蔵とは鳥羽院(鳥羽天皇・1107〜1123)が当時の珍しい宝物を集めた場所のことで、ここに蔵されていた絵像の八幡菩薩像を重源は東大寺鎮護の八幡神として迎え入れようとしましたが、断られていました。そこで重源は快慶に「絵像に似せて木彫像を造るように」と命じたのです。

 勝光明院宝蔵の八幡菩薩像は空海が入唐の際の船上に顕現した僧形八幡菩薩像を、空海が描いたものとされ、またこの時、同様に八幡菩薩は空海を描いたと、されます。お互い描いたというところから「互いの御影」とも呼ばれるのですが、そのお顔とお姿は、互いに似たものでした。

 僧形八幡菩薩像は、私たちにとって不思議なお姿です。

八幡は元々八幡という神名を持つ日本の神様です。「八幡さん」は全国に点在し、その数は四万社とも言われています。その総本社は宇佐八幡宮です。この宇佐八幡宮から東大寺に八幡神が招かれ、平安時代には京都の南の石清水八幡宮が創建され(859年)、そこから武神として鎌倉に招かれ鶴岡八幡宮が創建されます(1180年)。

 八幡菩薩という神仏表裏の名前も奈良時代には登場したと言われていますが、神仏が表裏となる関係性は、仏教が伝来して間もない六世紀にはすでに始まったとされています。

 

「東大寺の隣の春日大社の地中は地獄、と言われている。錫杖を持つお姿は地蔵菩薩そのもの。地獄に居るものを救うという意味での地蔵菩薩のお姿か。では数珠はどのよう意味なのだろか」と快慶は思いを巡らしていました。

 現在の春日大社のある春日野の下には地獄があるという思想、すなわち春日地獄のことが鎌倉時代には知られるようになっていました。この地獄に堕ちた者を救うのが地蔵菩薩、そして地蔵菩薩は春日大社第三殿の祭神、天児屋命(あめのこやねのみこと)の本地仏とされていました。天児屋命の子孫が中臣氏(なかとみ)、その子孫が藤原氏。春日大社は藤原氏の祖神である天児屋命を祀る場所でした。そして興福寺は藤原氏の氏寺。このようにして春日大社は興福寺と一体化していました。
 春日大社は東大寺とは直接の関係はありませんが、春日地獄は僧形八幡菩薩像の出現と明らかに関係しています。

 空海は東大寺別当(住職)を四年間に亘り務めていますが、東大寺と空海の関係が正式に登場するのは803年(延暦22)。空海は東大寺戒壇院で具足戒を受けた後に、入唐します。年齢で言えば30歳前のことであり、空海はそれまで出家の戒を受けていなかったことになります。僧侶として唐に留学するためには、唐も認める正式な僧侶の資格が必要となり、空海は入唐前に慌ただしく東大寺戒壇院で具足戒を受けたのです。前にも記しましたが入唐する遣唐使船上で顕現した八幡大菩薩とお互いに姿を描き合ったのが「互いの御影」です。

 八幡大菩薩はすなわち、空海の御影でもあったのです。僧形とは呼ばれますが、その姿は地蔵菩薩でありながら、左手に数珠を持つのは、それが空海の姿だからです。

 僧形八幡菩薩像が右手に持つ錫杖の宝珠には六輪の鐶が下がりますが、これは六道救済を実現するものであり、左の数珠は神仏と交信するもののでした。このようにして僧形八幡菩薩像は人を仏、人と神とを媒介する姿になっていました。

 快慶は四天王寺あたりの数珠屋の娘から、注文していた数珠を受け取りました。

「お地蔵様と言えば、右手に摩尼宝珠。数珠は摩尼宝珠の代わりでございますね」
「その通り。その上、この数珠は神と仏が交わる役目をも果たす」と答える快慶。

 その娘は密教に明るく、快慶が来ると仏像造りの話をいろいろと聞くことを楽しみにしていました。
 渡された透明感のある数珠は、しっかりと編まれており、張りのある仕上がりです。

「この数珠があってこその僧形八幡菩薩像」と快慶はその仕上がりに納得しました。

 今私たちが見る、東大寺勧進所八幡殿に安置される僧形八幡菩薩像は快慶が彫り上げた時代の彩色がよく残り国宝に指定されています。しかし、左手にあるべき数珠は欠落しています。国の宝とされる尊像なので、今後も新たに数珠を持つことはないでしょうが、左手に数珠を持していたことを想像すると、僧形八幡菩薩像の命の輝きが増します。