数珠の歴史

数珠の歴史(30) 東大寺大勧進・重源(ちょうげん)の数珠

 見渡す限りの人々に囲まれた高座の上に坐る重源は、静かに数珠を繰り「南無阿弥陀仏」と称え始めると、騒がしかった人々も口々に「南無阿弥陀仏」と称え始めました。自分で作った数珠を持ち、重源と同じように数珠を繰る人も大勢おり、南無阿弥陀仏と称える声の重なりがやがて人々を覆います。集まった人々の中には何日もかけて重源が来た周防(現在の山口県)の地に、やってきた者もいます。周防国は東大寺再建のための用材を確保するための造営料国となり、東大寺勧進職の重源は1186年(文治2)に周防にやって来たのです。
 集まって来た人々は重源と共に念仏を称え、念珠を繰ることで、再建された東大寺大仏に結縁を求めようとしていたのです。この念仏の後、回ってきた蓮の実の柄杓の中に多少の喜捨をし、湯屋に入ることが彼らにとっての大きな楽しみでした。

 平家と源氏の兵火の中、東大寺大仏が焼け落ちたのは1180年(治承4)5月のことです。源氏側に立つ興福寺衆徒に対して平重衡が攻め込み、東大寺と興福寺に火を付けて焼き払い、大仏殿の大仏も火中で融け崩れました。この時、大仏殿に逃げ込んだ老僧、女性、子供約1000人が阿鼻叫喚地獄の中で焼け死にました。

 東大寺大仏が焼かれたことは朝廷にとって大きな衝撃となり、1181年(治承5)6月には早くも東大寺大仏の再建計画が動き出し、造東大寺の長官として藤原行隆が任命され、鋳物師と共に焼け落ちた東大寺大仏を検分しますが「とても再建は無理」と鋳物師たちは尻込みしていまいます。

 こうした中で、この年の8月、東大寺造営勧進職東に任じられるのが重源です。藤原行隆は朝廷からの勧進職宣旨を渡された重源はこの年61歳。「奈良の大仏を最初に作った行基菩薩は76歳、天平15年の時のこと。諸仏の加護でわしがやりとげる」と両手に数珠を持ち繰りながら自分の中の仏に誓願しました。

 重源は1121年(保元2)に生まれ13歳の時に醍醐寺で出家、17歳の時に空海の後を追うよう四国で修行、その後も熊野、大峰、葛木といった修験の地を巡り、1176年(安元2)までに三度日宋したと言われていますが、40歳を過ぎた時の入宋の際には、彼の地において同じく日宋していた栄西と出会っています。栄西は臨済禅を日本に伝えた僧として知られており、重源の後、東大寺勧進職に就いています。

 東大寺大仏が完成し開眼供養が行われるのは1185年(文治元)。この開眼供養には源頼朝、政子、そして長男頼家、長女大姫と共に臨み、この後に難波四天王寺へと参詣もしています(この物語にかかわる数珠の歴史はここをクリック)。源頼朝は大仏再建にあたり、大量の砂金などを東大寺に献納しており、東大寺にとって頼朝は大檀越でした。

 重源はこの後、大仏殿の再建に取り組み、巨木を求めて周防国に行き、そこで長さ40メートルもの大柱となる材料を切り出し、海路奈良まで運びます。大仏殿での再建が完成し総供養が1203年(建仁3)に行われます。

 重源の肖像彫刻は四体が残されており、そのうち、東大寺に蔵される重源像は数珠を両手に持つ像容です。手に持つ数珠がその時に作られたものかどうかは分かりませんが、重源の像と同じ色をした歴史を感じさせるもので、その玉は「大平」と呼ばれるやや平たい玉使われています。この数珠には弟子玉や露と呼ばれる「装束」と呼ばれる道具が付いていません。大平玉にしたのは、繰りやすい、という理由かもしれません。

 東大寺には重源が実際に持していたとされる菩提子の数珠も残されています。この菩提子念珠は33玉で、栄西が宋から持ち帰った菩提樹の実を数珠にしたものと伝えられていますが、その形から想像すると、もしかすると蓮の実かもしれません。使い込んで黒光する数珠には重源の思いが込められているようです。

 同じく数珠を持つ重源の肖像彫刻が、兵庫県の浄土寺に残されていますが、こちらの像が持つ数珠は現代でも見る様式のもので、当初持していた数珠が失われ、後世この彫像に持たせたものでしょう。浄土寺には今でも快慶作の阿弥陀如来立像が安置されており、重源が快慶をはじめとする慶派の仏師たちに造仏させていたことが分かります。

 この二体の肖像彫刻から伝わることは、重源が常に数珠を手にしていたということです。数珠を持ち、いつも念仏を称えていました。
 重源は自らを「南無阿弥陀仏」と称していました。その出自から言えば、重源は真言の密教僧ですが、この時代、真言宗は大日如来と阿弥陀如来を同一する覚鑁(かくばん)の思想が生まれ、新たな潮流となっていました(現在の新義真言宗)。浄土の教えについて重源は法然の影響も強く受けていました。実は法然の肖像にみえる数珠の持ち方も、両手で持つ姿で興味深いものがあります。

 重源は南都東大寺を再建しますが、その本尊となる毘盧遮那仏は大日如来と同一視されることから、阿弥陀如来もまた盧舎那仏と同一ということになります。

 数珠を繰り、念仏を称えることは、重源にとって華厳の教え(東大寺毘盧遮那仏)、密教の教え(大日如来)、そして極楽の教え(阿弥陀如来)と一体化することでした。勧進する重源の数珠を見て、多くの人が重源の持つ数珠を真似たに違いありません。数珠を持ちたいと思い、数珠を持つ人が増えることは、安穏である仏の教えの広がりを意味しています。