数珠の歴史

数珠の歴史(19) 平安時代、沈香はどのように日本に入って来ていたのか

前回は平安時代の摂関政治の中で頂点を築いた藤原道長(966〜1028)と娘である彰子(988〜1074)が出家するにあたり、贈られた沈香の数珠のことを紹介しました。

 この時代、沈香の製品に関する記述、「沈」と称される製品は意外と多くあります。

沈ノ念珠ノ琥珀ノ装束シタル 『今昔物語』

沈の箱に、瑠璃の坏(つき)二つ据ゑて 『源氏物語』(梅枝)

艶に透きたる沈の箱に 『源氏物語』(絵合)

沈の懸盤(かけばん)、銀の皿 『栄花物語』

紫檀の折敷、沈の台 『うつほ物語』

 いずれも平安時代を代表する古典文学ですが、沈香(沈)は東南アジアで産出する香木であり、一体どのようにして、貴重な沈香が日本にもたらされたのかを、今回は数珠から少し離れて考えてみたいと思います。

 日本の歴史の中で、沈香に関しての最も記述が古いものは『日本書紀』推古天皇三年夏四月(595年)のものです。淡路島に沈香が漂着し、沈香とは知らずに竈で焼いた島人がその香りに驚いて朝廷に献上したもの、という内容です。

 沈水(じん)、淡路島に漂着(よ)れり。其の大きさ一囲なり。島人、沈水というふことを知らずして、薪に交えて竈に焼く。その烟気(けぶり)、遠く薫る。即ち異なりとして献る。(『日本書記』)

『日本書紀』では天智天皇の十年十月(671年)に、天智天皇が法興寺に袈裟・金鉢・象牙・沈水・栴檀香などを奉り、仏を供養したという記述があります。

『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』の天平十九年二月には沈水香十両という記述の他、浅香、薫陸香(くんろくこう)、青木香(せいもっこう)、丁字香(ちょうじこう)、安息香(あんそくこう)、甘松香(かんしょこう)などが大量に宮中から下賜されたり、法隆寺が購入した記録が残されています(『大日本史料』)。これらの香原料は、今でも薫香として使われるものです。

 香原料に関しては、鑑真の来朝(753年)との関わりの中で語られることもありますが、実際には鑑真の来朝前から沈香をはじめとする香材料が輸入されていました。鑑真が香材料をもたらした、と語られるのは「唐和尚東征伝」による部分が大きいと思われます。唐和尚とは鑑真のことで、鑑真が日本に来る前に準備したものの中に香原料が含まれるからです。

沈香 甲香 甘松香 龍脳香 膽唐香(たんとうこう) 麝香(じゃこう) 安息香 桟香(せんこう) 零陵香(れいりょうこう) 青木香 薫陸香 六百斤 

以上は『群書類従』九十三で収録される「唐和尚東征伝」に含まれるものですが、とても興味深いものがあります。ただし、これは第一回目の渡航前の話であり、この記述の内容通りにもたらされたかどうかは分かりません。

 正史では日本と大陸との交流は、遣隋使、遣唐使によるものだけが紹介されます。遣隋使は600年から618年の間に3回乃至は5回、派遣されたとされます。ただし、聖徳太子は新羅から来た人物に会っており、この時代は遣隋使以外にも朝鮮半島との往来があったことが分かります。遣唐使は630年から836年に間に19回行われました。最澄と空海は第18回目の遣唐使船団で入唐しました。

 遣唐使船がその役割を終えたのは、唐が衰えた(滅亡は907年)からです。しかし、日本と大陸との交流、朝鮮半島との往来は途絶えることがありませんでした。

 奈良時代も平安時代も、国家間の正式な貿易は朝廷の許可が必要でしたが、許可なしの貿易も行われ、唐・新羅・渤海(ぼっかい・現在の北朝鮮から極東ロシアにかけて存在した国)との交流は続き、商人(貿易商)という職種も登場しています。日本では主に太宰府が窓口になりました。
 900年代になると唐・新羅・渤海は滅亡し、大陸では五代十国を経て宋の時代に、朝鮮半島は高句麗(こうくり)の時代となります。

 藤原摂関政治の時代、950年から1150年くらいまでは、中国は宋の時代にあたります。宋は貿易による収益に力を注ぎ、香料や薬品の専売機関を設け、広州、杭州、明州、泉州などに貿易を司る役所を設けていました。日本には978年にはじめて来朝して以来、頻繁に日本に来ました。交易は宋と高句麗、日本との三国間でも盛んに行われました。

 平安時代、当時の様々な職業のことを詳細に紹介する『新猿楽記』という書物が登場します。著者は藤原明衡(あきひら・989?〜1066?)。この『新猿楽記』で紹介される商人・八郎の真人が扱う品物は驚くほど幅広いものです。輸入するものとしては以下のものが挙げられています。

沈香、麝香、栴檀の薫衣香、丁字香、甘草、薫陸、青木、龍脳、牛頭、鶏舌、白檀、紫檀

輸出するものとしては以下のものが挙げられています

金、銀、阿久夜(あくや)の玉、夜久貝(やくがい)、水精、琥珀

以上紹介したものはほんの一部です。この商人・八郎の真人は未開の地である蝦夷から九州の果ての鬼界島まで足を運び、一カ所にとどまることなく抜け目なく商売をすると紹介されています。

 沈香や白檀、紫檀などは当然輸入品なのですが、日本からは金、銀の他、螺鈿の材料となる夜光貝や水精、琥珀などが輸出されていました。
 これだけの物量を動かしていたのは、例えば呉越商人が動かす3人の船頭と100人の船員が乗船する三千石積みの船でした。
 沈香や紫檀などは中国へと来航するアラビア商人による南海貿易によってももたらされていました。もちろんアラビア商人達は香原料を現在の中東エリアに輸出し、莫大な利益に挙げていたに違いありません。

 藤原摂関家は広大な荘園がもたらす収入があり、この収入により寺院を建立し、東南アジアからもたらされる沈香を用いた数珠や様々な工芸品を購入することができたのです。藤原倫子と藤原義孝の紫檀の数珠、藤原妍子が妹彰子に贈った沈の数珠に黄金の装束は、このような交易の中でもたらされた材料により作られました。

 数珠はこの時代から世界貿易の中にある法具でした。世界中から貴石や様々な玉素材を輸入して作る数珠は、現在でも世界中の貿易の中で作られています。このことを思うと、数珠は世界史と世界地図の中で考えることのできる、唯一の法具と言えるかもしれません。